橋本琴絵:西村宮内庁長官「拝察」発言が"不敬"であるこ...

橋本琴絵:西村宮内庁長官「拝察」発言が"不敬"であるこれだけの理由

何故「拝察」したのか?

そもそも「拝察」なる代弁行為は許されるのか

 去る6月24日、宮内庁の定例記者会見の場において、宮内庁長官の西村泰彦氏(東大法学部卒)が天皇陛下の大御心をさも代弁しているかのように「国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されている、ご心配であると拝察しています」と述べた。所謂「拝察発言」である。

 これに対して、加藤勝信官房長官は「あくまでも自身の考えを述べた」と評価し、麻生太郎財務大臣は「宮内庁長官っていうのは天皇陛下の言葉を直々に伝えたり、かわりに伝えるなんてことは普通はないけどね。そういうルールじゃん」とコメントし、最終的に菅義偉総理大臣によって「長官ご本人の見解を述べたと理解している」と結論づけられた。

 また上記政府の見解に対しての反対意見も見られた。それは、憲法が制限する天皇の行為はあくまで「政治参加」であって、スポーツや防疫など科学的なご発言については憲法上の制約が無い、などという見解だ。

 しかし、根本的な問題として「宮内庁長官が天皇陛下の大御心を代弁できる」とする理由がそもそも無い。

 先の東日本大震災後、民心安定のため陛下自ら公表されたお言葉のように、政治以外の分野では御言葉に憲法上の制約が無いことは明らかである。つまり、摂政が置かれた場合の他に天皇陛下の代弁を認めること自体に理由が無いのである。

 そこで本稿では、天皇陛下に近しいものが、自身の考えをさも天皇陛下の大御心かのように外観を作出することの問題点と、そのような不敬なふるまいをする者が出現する背景について説明する。
橋本琴絵:西村宮内庁長官「拝察」発言が"不敬"であるこ...

橋本琴絵:西村宮内庁長官「拝察」発言が"不敬"であるこれだけの理由

菅総理は「長官本人の見解」と述べたが―

法律面から見た問題点

 まず、天皇陛下の大御心を代弁することには法律的な問題が存在する。

 例えば、現行刑法は、文書偽造の罪を3種類にわけて法定している。天皇の文書、公用の文書、私用の文書である。このうち、天皇の文書の偽造が最高で無期懲役となり最も罪が重い(刑法第154条)。社会に与える影響が大きい順番に罪を重くしているのだ。天皇の文書は社会的信用性が最も高く、偽造された場合の社会的影響も強いためである。

 さらに、不正に本人を代理することは、一般人であっても禁じられている。法律上、代理が認められているケースは、未成年者と親権者の関係、精神障害者と裁判所が選任した後見人の関係など、厳格に法定されている。それだけ、本人を勝手に代理することは社会的混乱を招くからだ。

 にもかかわらず今回、宮内庁長官は本人の意図を「拝察」という表現を以て天皇陛下のご意志であるかのような外観を作出した。このニュースは海外メディアでも報道されており、世界各国のメディアは「拝察」という日本語を正しく英訳することなく、「天皇の関心ごと」という表現で発信した。これは、宮内庁長官の意図ではなく、「天皇自身の考えを宮内庁長官が代弁した」と読み手に理解されるに十分な報道表現であった。

 こうした現象は、実は今に始まったことではない。古くは鎌倉幕府が崩壊した後の混乱した世情を記録した「建武年間記」に収録された「二条河原の落書」では、「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨(にせりんじ)」の文言が記録されている。綸旨とは、天皇の意志を文書化したものをいう。昔から、天皇の意志を捏造する「反社会的行為」はあって、それが「夜討」や「強盗」と並ぶ悪事という認識が一般的にあったわけだ。今回はこともあろうか宮内庁長官がそれに似たことをしたのである。

「不敬」の源流=天皇ロボット説

 では、こうした「天皇の人格を否定する動き」の源流はどこにあるのか。実は、今回の宮内庁長官をはじめとする一定数の人々は、「天皇はロボットである」という恐るべき教育を大学で受けている。いわゆる、宮沢俊義の「天皇ロボット説」である。

 東大法学部教授だった宮沢俊義は、日本国憲法を論じる上で天皇の存在を「ロボット」と表現しているため、以下に引用したい。

 『実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって機械的に『めくら判』をおすだけのロボット』(全訂日本国憲法 宮沢俊義著・芦部信喜校訂)

 これは、天皇の国事行為は内閣の助言に従って執り行うと定める日本国憲法上の規定を悪意ある表現で解説したものだと考えられる。実は、天皇は「いち機関である」とか「天皇は鳩である(象徴に過ぎないという悪意表現)」といった不敬思想は、戦前から戦後にかけて散見される。美濃部、宮沢、芦部、そして最近だと刑法学の基本書でベストセラーをだしている前田雅英氏などのいわゆる「東大法学部」の憲法教育の系譜である。

 「天皇はロボット」と思っているからこそ、一般人が児童や精神障碍者の代理をするように「代言もできる」と考えてしまい、それゆえに「拝察」という不敬な態様を示したのではないだろうか。

 一般的な感覚では、「ロボット」と聞くと「えっ」と思うのが通常だとは思うが、この「ロボット説」が我が国の憲法学の最高権威が唱える学説なのである。それでは、この理解の仕方は、本当に正しいと言えるのだろうか。
橋本琴絵:西村宮内庁長官「拝察」発言が"不敬"であるこ...

橋本琴絵:西村宮内庁長官「拝察」発言が"不敬"であるこれだけの理由

日本の憲法学の権威、宮沢俊儀・東京大学名誉教授
 私は、「ロボット説」のように立憲君主へ対して独特の評価をする思想は「憲法学」ではなく「日本国憲法学」であると考えている。日本国内で有名な「自称憲法学者」たちの名前と論文は、イギリスやアメリカの憲法学界隈では誰も知られておらず、またその論文も引用されていないからである。(学術的に価値がある学説を発表している場合、他の研究者の論文上の被引用数でその価値が客観的に決まる)

 そもそも「憲法」という概念を生み出した本場のイギリスと、日本の憲法学者では、「憲法」という同じ言葉を使ってはいるものの、全く意味が違うのである。

 日本の憲法学者の言う「憲法」とは「誰かの思い付きでつくられた最高のルールを守れ」という意味で「憲法」という単語を使っている。これは、日本や共産国で目立つ特殊な現象である。

 しかし、アメリカやイギリスをはじめとする先進各国では、憲法とは「歴史と慣習から発見された有用なルールに全員が従う」という意味を持つ。

 例えば、イギリス憲法典を学ぶ上で基本書とされているウィリアム・ブラックストンの『コメンタール イギリス法』(Commentaries on the Laws of England)から、憲法とは何かを学ぶ上で極めて重要な一節を引用したい。

 “we must not prefer the edict of the praetor, or the rescript of the Roman emperor, to our own immemorial customs or the sanctions of an English parliament”
(筆者訳) 『私たちは、記録の無い時代からの慣習や英国議会の裁可よりも、執政官の勅令やローマ皇帝の詔勅を優先させてはならない』

 この中の例えとしてだされているローマ皇帝は「思い付きの思弁」や「それが実行されたとき社会に有用な効果をもたらすのか歴史的な検証を経ていないもの」をあらわしている。一方で、慣習や議会とは、歴史的経験則と人民の同意をあらわしている。これを「尊重」することこそが、憲法の本髄である。当たり前であるが、ローマ帝国に憲法は無かった。このため、皇帝の「思い付き」を他人に強制する行為を制約するものは何もなかったのである。

東大法学部で学べば「拝察」発言は当たり前?

橋本琴絵:西村宮内庁長官「拝察」発言が"不敬"であるこ...

橋本琴絵:西村宮内庁長官「拝察」発言が"不敬"であるこれだけの理由

東大では「天皇ロボット説」が当然か?
 一方で日本国憲法はどうか。一応、日本国憲法は第90回帝国議会で審議されて可決された体裁をもっている。しかし、その当時の背景をみると、「日本国憲法」よりも上位の法源があった事実を無視できない。連合軍総司令部によるSCAPIN(Supreme Commander for the Allied Powers Directive=連合国最高司令官指令)である。

 SCAPINは日本国内の法律・憲法より優先される「法的拘束力」を持っていた。日本には主権が無かったからである。このため、昭和20年9月2日の第1号命令から昭和27年4月26日(サンフランシスコ平和条約発効の2日前)の第2204号命令まで、日本国内では「執行官(総司令官)の命令」が「議会や慣習」より優先されてきたのである。

 よって、日本国憲法で財産権が保障されていても農地改革が行われ、表現の自由と出版の自由があっても特攻隊の賛美や歴史的な事実の検証をする図書印刷やラジオ放送は禁止され、剣道や柔道などのスポーツ教育も禁止され、信教の自由があっても神道指令という宗教弾圧が当然のように執行された。

 戦後日本には「慣習や議会よりも優先される執行官の命令」が存在し、その命令によって日本国憲法の修正や審議される法律案の変更が行われた。主権を喪失し、銃口を突き付けられた心理的圧力下の議会で可決の体裁を得た日本国憲法が生まれ、ここから総司令部の意向に迎合した曲学阿世の集団が出世した。この中の一個人の悪意から「天皇ロボット説」が生まれ、次世代の教育に反映された。

 冒頭にも書いた通り、西村宮内庁長官も東大法学部卒である。つまり、この教育を受け続けた世代がついに宮内庁長官の地位まで上り詰め、「拝察」という表現で天皇を利用し始めた、と解すべきであろう。 

きわめて危険な権威の「利用」につながる

 これは極めて危険な兆候である。戦前の軍隊でなされた「上官の命令は天皇陛下の命令である」という悪しき運用とはけた違いの悪影響をもたらす可能性があるからだ。何しろ「天皇はロボット=権威をいくらでも利用できる」という「思い付き」が累々と現在も教育され続け、その芽が出たのが今回の「拝察発言」であると思われるからだ。

 極端な例ではあるが、「天皇陛下は習近平氏との会食を所望されていると拝察した」とか「天皇陛下はウイグル人ジェノサイドの真実性に疑問をもたれていると拝察した」といった「政治利用」の一歩手前にきている恐れを否定できない。個人の考えの枕詞に「拝察」をつければ、それが天皇の権威を纏い、国民を容易に欺罔できるのである。

 先に紹介したブラックストンは、戦後、一切翻訳されていない。「日本国憲法」を語る上で「そもそも憲法とは何か」という事実を理解されてしまえば、不都合であるからだ。よって、憲法の本質を全く理解していない「法学部卒」を量産し、「天皇ロボット説」という悪意ある思い付きを大学教育に持ち込むことが出来た。しかし、それはもう許される時代ではない。

 我が国の秩序を守るためにも、摂政や外交特使など天皇を代理できる権限が定められた者以外が天皇の代弁ないしそれに近似した外観作出をした場合は、相応の処罰を与えるような法制度が必要であると進言する。
橋本 琴絵(はしもと ことえ)
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。日本会議会員。

関連する記事

関連するキーワード

投稿者

この記事へのコメント

コメントはまだありません

コメントを書く