コロナそしてペスト~歴史に見る感染症対策~

コロナそしてペスト~歴史に見る感染症対策~

現代のコロナと中世のペスト対策

 2019年年末に中国武漢で発生した新型コロナウイルス(以下、新型コロナと略す)は、瞬く間に世界中に広がり、パンデミック(世界的流行)の状態となった。そして、2020年8月末の段階で、世界で感染者は2527万3510人、死者は84万7071人に膨れあがる。大きな被害を世界中で与えているのだ。

 しかし、この新型コロナをはるかに上回る恐ろしい病原体が大流行したことが、人類の歴史上、1度だけある。それは、14世紀にヨーロッパや中東で蔓延したペストであった。この感染症は黒死病(手足の付け根のリンパ節が腫脹、それが黒色や鉛色の斑点になる症状からそう呼称)とも呼ばれ、欧州で大流行、当時の人口の3割以上が死亡する大惨事となる(3500万人が死亡)。

 これまで人類は、第1・第2次次世界大戦、スペイン風邪などの危機に直面したが、人口曲線に影響するほどの事態に至ったのは、14世紀のペスト大流行だけである。まさに人類滅亡の危機に陥っていたのである。ペストは、ネズミが最初に感染し、そのネズミを吸血したノミが人を吸血して感染する病気だ。ペストで肺炎を起こした人がクシャミや咳で、病原体を周りに撒き散らすこともある。

 ペスト大流行は、多くの犠牲者を出したのみならず、社会や文化にも影響を与えた。教会関係者も多く亡くなったことから、ラテン語(ローマ・カトリック教会の公用語)を話せる者が減り、世俗の言葉(英語・フランス語・ドイツ語)が台頭。教会の権威も墜ち、宗教改革の誘因ともなった。

 ペストは14世紀以後も、人類を襲うこと度々であったが、この時ほどの被害は与えていない。なぜ、この時、ペストは猛威をふるい、例えば中世イタリアの作家ボッカチオが小説『デカメロン』で、フィレンツェの城壁内で10万人以上が死亡したと記すまでの惨禍となったのか(10万人は誇張とする説もある)。

 それは1つには、ヨーロッパの住民が飢饉によって、免疫力が低下していたことが考えられる。大雨や冷夏などの気候変動により、飢饉が発生。住民の免疫力が低下していた時にペストが流行したことから、大量の死者が出たということだ。

 また、ヨーロッパでペストが最初に流行(6~8世紀頃)してから、14世紀までペスト流行が起きていないので、ペスト菌の免疫力が下がっていたとも考えられる。

 3つ目の理由としては、中世ヨーロッパの衛生状態が悪かったことだ。豚やヤギなどの家畜が城壁内で飼育され、街の道路は、家畜の糞尿で溢れていたし、便所を備えている家も少なく、人々は川などで排泄していた。体を洗うことをしない人もいて、服さえ着替えない人もいた。そうなると、ノミやシラミが皮膚に寄生し、感染症が蔓延することになる(ちなみに、ペスト菌はシラミによっても媒介される)。

 では、当時の人々は、ペストという脅威にどう立ち向かったのか?

 悲惨なペストの流行を他の都市と比べたら抑えることができたのは、イタリアのミラノである。ミラノは、ビスコンティ家の専制支配の下にあったが、市内に病人が入り込まないように、厳しい監視(今風の言葉で言えば都市封鎖)を行った。しかも、患者が発生した場合は、家もろとも焼くという恐ろしい手段をとっていた。ドイツのニュルンベルクも死者が低かった街の1つである。ペスト流行前からの定期清掃や、多くの公衆浴場の存在、市庁舎に医師団が常駐し、患者の治療にあたったことが功を奏したと言われている。

 また、イタリアのベネチアでは、入港する船を沖合にある島に停泊させ、乗員を施設に40日間隔離することも行われた。そして、ペストを発病しなければ、町に入ることを許されたのだ。これは今で言う検疫である。この手法は効果があったことから、地中海の他の港町にも広まっていった。

 ペスト流行は、人々の間に疑心暗鬼を生み、ユダヤ人の虐殺が起きたり、ペスト患者を忌み嫌う風潮を高めた。患者に対する差別という点では、現在の新型コロナでも同様の事態が起きている。中世ヨーロッパの人々は、ペストをどう防いだか。簡潔にまとめると、患者の隔離・都市封鎖そして検疫である。

 これらは、現代の感染症対策としても有効であろう。

戦国~江戸時代に見る日本の感染症対策

では、日本は感染症対策に古来よりどのように取り組んできたのか。現在、明智光秀を主人公にした大河ドラマ『麒麟がくる』が放送されているが、光秀が京都本能寺で殺害した主君・織田信長はどのように対処したのか。

 信長の一代記『信長公記』には、疫病の記述はほとんど見えないが、その「首巻」には「備後守様は疫病にかかられ」との一文がある。備後守、つまり信長の父・信秀が流行の悪病にかかったと言うのだ。そして、どうしたかと言えば「様々な祈祷やご療治をされた」と同書にはある。しかし、その甲斐なく、信秀は死亡。

 これに関連する記述が、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイス が書いた『日本史』にもある。それによると「彼の父が尾張で瀕死になった時、彼は父の生命について祈祷することを仏僧らに願い、父が病気から回復するかどうか訊ねた」と言う。僧侶は「回復するでしょう」と答えたが、数日後に信秀は死去。これに怒った信長は、僧侶を寺院に監禁し「父の健康について虚偽を申し立てたから、今や自らの生命につき、さらに念を入れて偶像に祈るがよい」と言い、数人の僧侶を射殺したというのだ。信長らしいエピソードではあるが、この話からは、あの信長でさえも、仏神頼みするしかなかったことを示していよう。

 『信長公記』には、僧侶を殺したとは書いていないので、フロイス の話もどこまで信用できるか不明ではある。現代のように良薬やしっかりした医学的知識があるわけではないので、流行病を食い止めることは、権力者であっても簡単なことではなかったと言うことだ。

 江戸時代になると、具体的・有効的な対策がうたれる。享保の改革を断行した八代将軍・徳川吉宗は、全国に疫病が蔓延した時に、本草学者を登用し「薬草政策」を展開したり、小石川薬園に、貧民のための養生所を設けたりしている。有名な町奉行・大岡忠相(おおおかただすけ)に命じて、庶民の生活調査を行い、自分で薬が買えない庶民を把握。そうした人々への薬の無償提供を行った。

 例えば、麻疹薬を無償配布したのである。その薬とは、白牛洞と呼ばれる牛の糞の黒焼きであった。無料であるにも関わらず、白牛洞はなかなか普及しなかったようである。町奉行所まで願い出るのが、めんどくさい人々や、使用法が困難との理由が多かったようだ。そうした人々に対し、江戸の町年寄である奈良屋でも薬を受け取れるようにもしている。今回の新型コロナの蔓延に際しては、政府からは「アベノマスク」が配布されたが、江戸時代においては、牛の糞が配られたと言うことである。政府には民衆に対する「温情」が昔からあったといえようか。

 ちなみに日本での新型コロナの感染者数や死亡者数が、諸外国と比べて少ない理由としては、公共の場で大声で会話をしないと言うこと、土足やハグ・握手をしないと言うことなどの文化的な理由も挙げられている。
(主要参考引用文献一覧)
・村上陽一郎『ペスト大流行』(岩波書店、1983)
・太田牛一『信長公記』(角川書店、1984)
・ルイス・フロイス『完訳 フロイス日本史2』(中央公論新社、2000)
・濱田篤郎『パンデミックを生き抜く』(朝日新聞出版、2020)
・鈴木則子『江戸の流行り病』(吉川弘文館、2012)
濱田 浩一郎(はまだ こういちろう)
1983年、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員・姫路日ノ本短期大学講師・姫路獨協大学講師を歴任。現在、大阪観光大学観光学研究所客員研究員。現代社会の諸問題に歴史学を援用し迫り、解決策を提示する新進気鋭の研究者。著書に『日本人はこうして戦争をしてきた』、『日本会議・肯定論!』、『超口語訳 方丈記』など。

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