弱者男性には女性をあてがえ⁉

  ――どうも、何でも、聞くところによると、ネットの世界には「女をあてがえ」論というものがあるそうです。弱者男性どもは、(国家などが政策として)自分たちに嫁となる女をあてがえなどと要求しているらしいのです。

 全くもって、女性差別的でけしからん話ですね。

 そうした連中にはアンチフェミ、アンチリベラル、ネトウヨ的な価値観を持っている者が多いとのことです。
 
 本当に、けしからんですね。
兵頭新児:「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち

兵頭新児:「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち

弱者男性に女性をあてがえ⁉
 前回も「弱者男性論」について述べましたが、この問題について考察した記事をもう一つ上げるとするならば、『文春オンライン』における杉田俊介氏の「「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?」となりましょうか。タイトルのみならず、本文においても「女をあてがえ論というものがあるのだ、あるのだ」と幾度も繰り返されています。

 絶対に、許せませんね。

 さて、では誰がそのようなことを言っているのか。

 俺もそのような連中に正義の鉄槌を下してやるぞと思って読んでいくと…具体的にどうのような論者がいて、そのような文章が書かれているかについては、とんと言及がありませんでした。

「非モテ」に矮小化される弱者男性論

 …すみません、ちょっととぼけてみせました。

 前回、ベンジャミン・クリッツァー氏の論考を紹介し、弱者男性論が「非モテに関するものだ」との論調があるが、それはある種、問題を矮小化した嘘だ、と指摘しました。

 そしてそのトリックをさらにえげつなくしたものが今回ご紹介する、杉田氏の記事なのです。

 この「女をあてがえ論」、杉田氏に限らず広範に「あるのだ」と主張されているのですが、弱者男性側に着せられた濡れ衣である可能性が極めて大です。実際、ぼくも一応弱者男性論界隈に身を置いているはずなのですが、今までそんなことを主張している人を、見たことがありません。

 ツイッターなどを観察する限り、これは男性側の「女性をいかに社会進出させても、彼女らは主夫を養うことはないのだからリターンはない。ならば主婦に収まってくれる方が非婚化も解消されようし、万事うまく回る」というロジックをフェミニズム側の人たちが情緒的短絡的希望的に曲解したものであるように思われるのです。

 参考になる事件があります。すもも氏というネット論客が、「非モテ男性にはライトオタク女子とのつきあいを推奨する」といった旨の言葉を述べたことがあるのです。
 ≪データを細かくみていくとライトオタク女子はかなり非モテ男性にとってやりやすそう。男性へのニーズの個別項目では「温厚ですぐに怒らない」「趣味があう」が高い。≫
(元のツイートはコチラ

 ≪非モテ男性にとっては、ライトオタク女子がおすすめです。ボリュームもそこそこいます。オタク趣味だけでなく、おしゃれな趣味も両立しているタイプです。仕事は小売業、生産工程、場所は北海道、福岡県、学歴は非大卒。男性ニーズはやさしさ。ハイスペ、モテを要求しません。≫
(元のツイートはコチラ
兵頭新児:「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち

兵頭新児:「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち

非モテ男性に「ライトオタク女子」との付き合いを勧めたら、総バッシングに…
 ところが、たったこれだけのことを言っただけで、すもも氏は「女をモノ化している!」などの(理解不能な理由で)総バッシングを受けてしまいました(参考サイト)。

 本件にヒステリックな反応を示した人々の脳裏には、「気持ちの悪い非モテどもがわたしを狙っているぞ」とのイメージが沸き立ち、それを「性被害」であるかのように捉え、そしてすもも氏を「女をあてがえ」と主張した人物であると解釈してしまったのではないでしょうか。

 そして、そうした非論理的で過剰としか言いようのない反応をネット記事が既成事実化し、「弱者男性」を攻撃する口実とする…そうした図式が、既にでき上がっているように思われます。森会長へのバッシングの件など、近年目立つようになってきた構図ですが、実のところ本件は2年前の話。昨今のフェミニストたちの暴走は、ネットの片隅でずっと起こっていたことだったのです。

弱者男性問題は意識の持ちようだけでは解決できない

 さてこの杉田氏、『非モテの品格』といった著作があるなど一応、ご当人自身が「弱者男性」的スタンスに拠って立っている方です。いえ、そのわりに結婚していらっしゃるようですが、ともあれその言説は一見、「弱者男性」に味方しているように見えるもの。問題の記事を見ていきましょう。

 ≪(引用者註・弱者男性には)救いがなく、惨めで、ひたすらつらく、光の当たらない人生がある、ということ。そのことをせめてわかってほしい。「多数派の男性はすべて等しく強者」という乱暴な言葉で塗り潰さないでほしい。誰々よりマシ、誰々に比べれば優遇されている、という優越や比較で語らないでほしい。不幸なものは不幸であり、つらいものはつらい。そうしたささやかな願いが根本にはあるのだろう。≫

 ≪あらかじめいえば、私は、そうした根本の声は絶対的に肯定されるべきである、と考える(ただし、後述するように、それを「異性にわかってほしい」という承認論によって解決しようとするべきではない、とも考える)。≫
 大変いいことをおっしゃっているように思えるのですが、最後の「異性に承認されることによって解決されるべきではない」の辺りで首を傾げざるを得なくなります。

 はて、ではどうやって解決されるべきなのでしょう。

 ≪ただし、ここで「肯定され、尊重されるべき」と言うのは、異性や社会からの承認を求めることであるよりも前に、「自分(たち)」の力によって行うべきことである、と私は(現時点では)考える。≫
兵頭新児:「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち

兵頭新児:「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち

「弱者男性」はそんなに簡単に自分を肯定できるのか?
 読み進めると、このようなご高説へと続いていきます。

 「まず自分で自分のことを認めてあげよう」。
 
 いえ、おっしゃっていることは大変結構なご提案だとは思います。
 
 しかし目下、「弱者男性」が陥っているのは結婚はおろか、自分一人でも食うのが難しいような貧困であったり、そもそも社会に出て働くことが難しいようなコミュニケーションスキルの欠如だったりであるはず。
 
 クリッツァー氏、杉田氏に限らず「弱者男性」がアンチフェミ的であることから、ことを「非モテ」に限定したい(女が欲しくて欲しくてならぬから逆切れで女を叩いているのだろう)方が一定層、いらっしゃいます。

 そうした人たちは(上のお二人以外の例だと)「異性愛は否定されるべきである」とのフェミニズムの理念に従い、非モテへと「異性を獲得しようとする欲求を断てば救われるぞ」とのこれまたありがたくてありがたくて涙が出るような提言をされることが多いのですが、それで納得する人など、一人もいないでしょう。

 また、異性はあきらめるとしても、男性においては貧困と非モテは密接につながっているという他ない。実はゼロ年代にもちょっとだけ「非モテ論壇」といったものが騒がれたことがあるのですが、事態はより進行し、「女よりまずパンがない」ことこそが問題となり、だからこそ「弱者男性」という具合に呼ばれ方が変わった、と考えることもできましょう。

 しかしリベラル寄りの論者はいまだそこを理解できず、「弱者男性」を「フェミを正当化するための悪者役」として描写し、「気の持ちようだよ」との無意味なお説教を繰り返している――そんなふうに思えます。

リベラルお決まりの「ご高説」

 近年のリベラルの言説は大体こうなのですが、何故現実を無視し、高みからただ、観念論を弄ぶマスターベーションを続けているのだろう、との感想しか湧いてきません。

 いえ、読んでいくとその理由も大体、想像はつきます。

 ≪自分の「つらさ」の原因を作り出す「敵」がどこかにいる、という話にしてしまえば、それは「陰謀論としてのアンチフェミニズム」に行き着いてしまうだろう。≫

 という一文がケッサクで、「まともにものを考えるとフェミニズムのせいだとバレちゃうから、ふわっとした精神論で納得して!」と懇願しているようにしか読めません。

 さらに記事は「弱者男性たちは今までネットで攻撃性を発揮してきた、そうしたアンチリベラル、アンチフェミニズム的な要素のない「弱者男性論」というものを構築するべきだ(大意)」と続きます。

 ≪すなわち、ミソジニストやヘイターやインセルにならないような、反差別的で脱暴力的な「弱者男性」の概念とは、どういったものだろうか。≫
  ※ミソジニスト:女性や女性らしさを嫌悪する人
  ※インセル:不本意な禁欲主義者


 はて、「差別的で暴力的な弱者男性」というのはどこにいるのでしょう。いえ、そうした者もいないわけではないでしょうが、先のすもも氏の例を見てもわかるように、まずフェミニストやリベラルが今まで(ことに弱者男性に対して)いかに差別的で暴力的であったかを、彼ら彼女らは一度でも省みてみたことがあるのでしょうか。
兵頭新児:「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち

兵頭新児:「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち

フェミニストほど男性に差別的?

フェミニズムに追随する「男性学」

 最終的に、杉田氏の主張は「男もつらい」という言い方では女性たちへの競合になってしまうのでよくない(女性様に逆らうとはまかりならん)、「男はつらい」との言い方では男一般がつらいと主張しているようでよくない(お前たち強者である男がつらいと主張するなどまかりならん)、よって「男がつらい」と言うべきだというご高説になります。

 ≪すなわち、他者との比較や優越の話ではなく、「この私」にとって「男らしさ」という正規とされる規範性それ自体がつらいし、抑圧的なのだ、というニュアンスになるのではないか。≫

 はい、「男らしさ=男性性」こそが悪なので、そこを否定せよ、とおおせです。

 この杉田氏、「男性学」の第一人者です。

 しかしこの「男性学」、少なくとも現状ではフェミニズムの忠実なしもべという他なく、彼がいかに男性の味方を装おうとも、このような結論しか導き出さないことは、前回もご説明した通りです。

 ≪その点では、地位も権力もあって己の特権に無自覚でいられる男性たちよりも、弱者男性たちのほうがまだ「救い」(解放)に近いのではないか。≫

 ≪非正規的で「弱者」的な男性たちには、もしかしたら、男性特権に守られた覇権的な「男らしさ」とは別の価値観――たとえば成果主義や能力主義や優生思想や家父長制などとは別の価値観、オルタナティヴでラディカルな価値観――を見出すというチャンス=機縁が与えられているかもしれないのだ(後略)。≫

 と語るに至って、杉田氏の本心が明らかになります。

 この記事は「邪悪の権化である強者男性は早晩、正義のフェミニストの鉄槌を受け、滅ぼされる。しかしお前たち弱者男性は悔い改め、男性性を捨てれば、救われようぞ」という、まるでカルトの勧誘のような結論であったのです。
 リベラルの観念的で地に足の着かない空論は時に「人権ポエム」と揶揄されたりしますが、(そして上の『非モテの品格』でも本当にポエムとしか言いようのない文章がいきなり挿入され、唖然としたのですが)、当稿もまた、「ポエム」で締められます。

 ≪誰からも愛されず、承認されず、金もなく、無知で無能な、そうした周縁的/非正規的な男性たちが、もしもそれでも幸福に正しく――誰かを恨んだり攻撃したりしようとする衝動に打ち克って――生きられるなら、それはそのままに革命的な実践そのものになりうるだろう。後続する男性たちの光となり、勇気となりうるだろう。≫

 まあ、何を言っているのかわかりませんが、ともあれ彼が「弱者男性」を子分にしたいと考えていることは伝わってきます。

弱者男性をリベラルの先兵にするな

 田中俊之氏という、5年ほど前に「男性学」関連の書籍を積極的に出していた人物がいます。その著作『男が働かない、いいじゃないか!』を読んだ時、ぼくは当稿と極めてよく似た読後感を持ちました。
 
 その内容は簡単にまとめるならば、「男が働かなければならない」というのはジェンダー規範に縛られた悪しき思い込みである、男だって働かなくていいのだというもの。いや、それが本当ならばそんなに美味しい話はなく、すぐにでも田中氏へと帰依したいところですが、しかし同書を読み進めても読み進めても「働かずして食っていく」方法についてはついぞ最後まで、一文字たりと記述がありません。

 最後は(当稿がそうであるように)「勇気を持って働かない道を選択しましょう(大意)」などとアジビラのようなことを書いて終わるのですが、言うまでもなく男性が働かないことはそのまま「死」を意味します。
 
そう、杉田氏が一応、うまくごまかしている点にまで田中氏は正直に言及し、告白してしまっているのです。

 すなわち、「弱者男性がどれだけ死んでいこうと知ったことではない。ただ、自分たちの政治的な企ての駒として使えればラッキーだ」という思いが透けて見えます(これは以前にも書いた「サブカル」陣営の「オタク」に対する視線とどこからどこまでもそっくりです)。

 弱者男性を自分たちの政治的理念のための「特攻要員」くらいにしか考えていなのでしょう。

 彼らは「悪しき男性性」という言葉を多用し、とにもかくにも男とは悪なのだと繰り返します。しかしぼくには、この世で一番「悪しき男性性」を持っているのはこうした「男性学」を振りかざすフェミニスト男性たちなのでは…と思えてならないのです。
兵頭新児:「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち

兵頭新児:「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち

弱者男性をリベラルの先兵とするな―
 ――さて、2回に渡って男性の論者による「反・弱者男性論」をご覧いただきました。

 が、本稿を脱稿した直後、「現代ビジネス」で女性ライター、トイアンナ氏の弱者男性論が発表されました。

 次回は氏の論考を検討してみたいと思いますので、もう少々おつきあいください。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。

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この記事へのコメント

兵頭新児 2021/6/7 14:06

すみません!
今までコメントに気づきませんでした!
なるほど、ALMとの比較は興味深いですね。
「便乗商品」に過ぎない上、ご本尊に逆らうこともできず、まともな思想、運動足り得ない。
土台のおかしさに気づかないままに表層だけで取り繕っているんですね。

2021/5/30 15:05

フェミニズム/男性学の関係は、BLM/ALM(アジアンライブズマター)の関係に似ていると感じました
ALMもBLMのダシに使われただけで、黒人のアジア人襲撃は一切批判せずに、白人だけを批判してました
やっぱりリベザル、、いや、リベラルの考えることは一緒なんですねw

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