教科書検定問題を考える

教科書検定問題を考える

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不適切な用語

 文部科学省は、令和3年度から中学校で使用される教科書の検定結果を公表した。社会科の歴史では、自由社と令和書籍が不合格となった。教科書検定制度やその結果に不備やおかしな面があることは『WiLL』誌上で藤岡信勝氏(新しい歴史教科書をつくる会副会長)などが指摘されているが、本稿では、検定に合格した歴史教科書の記述の中に、看過できない点がいくつか散見されるので、それらを指摘して、警鐘を鳴らしたい。公になったことに基づいて見ていこう。

 問題点の一つが慰安婦についての説明である。新規に参入した山川出版は「戦地に設けられた『慰安施設』には、朝鮮・中国・フィリピンなどから女性が集められた(いわゆる従軍慰安婦)」と記述した。かつての歴史教科書には「従軍慰安婦として強制的に戦場に送り出された若い女性も多数いた」、「多くの朝鮮人女性なども、従軍慰安婦として戦地に送り出された」などとの記述があったが、従軍慰安婦との呼称に疑問が呈されてきたことから、現在の教科書には使われなくなっていた。それが、今回、従軍慰安婦との呼称が復活したのである。

 そもそも従軍慰安婦という用語は、戦時中には存在しておらず、当時は「慰安婦」や「特殊婦女(慰安婦)」と呼ばれていた。従軍慰安婦という言葉が広まるのは、戦後になってからである。書名で使われたのは慰安婦に関する著作が複数冊ある作家・千田夏光『従軍慰安婦』が最初であろう。

 では、従軍慰安婦という言葉の何が問題なのか。従軍とは「軍隊に所属または従属して戦地へ行くこと」(『大辞泉』)、「軍人・軍属など軍に所属する人が戦場に行くこと」(『日本国語大辞典』)の意味であるから、戦地で将兵の性の相手をした女性を「従軍慰安婦」と呼ぶことに問題はないと感じる人もいるだろう。「従軍慰安婦」という用語が現在「広く社会一般に用いられている」から、それで良いではないかという人もいるかもしれない。

 しかし「従軍」というのは「従軍看護婦」「従軍記者」などのように、軍と公的な関係を持つ人々に付ける用語であり、業者(慰安所経営者)と私的に雇用契約している慰安婦に付けるのは適切ではない(また、慰安婦は民間の斡旋業者によって集められ、慰安婦は軍属ではなく、民間人の扱いであった)。驚くかもしれないが「日本軍の性奴隷」が慰安婦の実態を示すとする人々であっても、従軍慰安婦という呼称は適切ではないとしているのだ。「女性たちの戦争と平和資料館」のホームページには、次のように記されている。
「奴隷状態におかれた被害の実態を明確にするために、自らすすんで軍に従ったという意味にもとれる従軍慰安婦は使いません。従軍慰安婦が戦後になって使われ始めた造語だということもあります」と。

 同ホームページの「従軍慰安婦ではないのですか?」には結論として、慰安婦が当時の日本軍の文書にも使われていることから、歴史用語として、カッコをつけて「慰安婦」と表記するとしている。これが歴史を真正面から見据えた見解ではないだろうか。「従軍慰安婦」ではなく「慰安婦」と教科書に記載すべきなのだ。「従軍」という言葉は「慰安婦の強制連行」(日本軍が婦女子を強制連行し、性奴隷にした)という偽りの言葉に安易につながりかねない。

 今回の「従軍慰安婦」呼称の復活が問題なのは、「従軍慰安婦」という言葉をいつの日か、教科書から削る時、中国や韓国から必ずや抗議があることが予想されるからだ。竹島(島根県隠岐の島町)を「固有の領土」と、合格した教科書が記述したことに対し、韓国の外交部は「日本政府の明白な歴史歪曲」「不当な主張を盛り込んだ中学校教科書を検定通過させたことに対して強く抗議する」と主張。駐韓日本大使を呼び、是正することを要求したという。

 このようなことが、従軍慰安婦の記述をめぐって、いつの日か起こりかねない。もちろん、日本政府は、そのようなことがあったとしても、断固として撥ねつけるべきだが、従軍慰安婦の用語復活は、将来、無用の火種を生むのではと懸念するものである。

日本軍を悪逆に描く教科書

 事件の規模や犠牲者数をめぐって論争が続く「南京事件」については、全社の教科書が取り上げている。学び舎の歴史教科書は、南京事件に関するコラムを設け、
「銃剣を持った日本兵が家に侵入してきました。逃げようとした父は撃たれ、母と乳飲み児だった妹も殺されました。祖父と祖母はピストルで、15歳と13歳だった姉は暴行されて殺されました。私と4歳の妹は、こわくて泣き叫びました。銃剣で3カ所刺されて、私は気を失いました」と描写した。これは、南京に住んでいた夏淑琴(当時、8歳)の証言である。学び舎の歴史教科書は、戦時下の日本軍の加害行為について、資料を援用し、詳細に記述していることで知られている。南京事件についても「国際法に反して大量の捕虜を殺害し、老人・女性・子どもをふくむ多数の市民を暴行・殺害しました」と記していた。

 今回合格した東京書籍や日本文教出版などの教科書にも「(日本軍が)捕虜のほか、女性や子どもを含む多数の住民を殺害」と書かれているとのこと。自由社の教科書が「中国共産党によるプロパガンダで事件自体が存在しないため」として、教科書に南京事件を載せていなかったのとは対照的である。2015年の検定では、「殺害」を「死傷者を出した」に、「南京虐殺事件」を「南京事件」に変えたり、「国際的な非難」を削除したりする教科書が見られたというが、今回、先祖返りしてきたということか。

 私は、南京事件を教科書に載せること自体に強硬に反対するものではない。1937年、南京において日本軍が捕虜や市民を多数殺害したことは事実だからである(多数といっても、中国共産党政府が主張する30万人というのはあり得ない)。だが、日本軍の冷酷さを過剰に描写するのは、中学校の歴史教科書には相応しくないだろう。

 ちなみに、沖縄戦の「集団自決」については、山川出版の教科書のみが触れていないという。文科省は以前の検定で「沖縄戦の実態について誤解を与えるおそれのある表現」として、「集団自決」における「軍命」を認めないとする意見を付けた。その結果、軍の強制性を示す記述は消えたが、今回、3社が「日本軍によって集団自決に追い込まれた」と記したという。集団自決が軍の強制であるか否か。それは、個人のとらえ方や地域の状況によって差があり、全てを日本軍の責任に帰すことはできまい。

 自決したいという人に対し「バカなことを言うな! 死ぬんじゃない。今まで何のために戦闘準備をしたのか。みんなあなた方を守り日本を守るためじゃないか。あなたたちは部隊のずっと後ろの方、島の反対側に避難していれば良いのだ」と諭した梅澤裕(座間味島守備隊長)のような軍人もいた。

 梅澤氏は、戦闘に没頭し、172名の住民が集団自決したことさえ知らなかった。であるにもかかわらず、戦後、梅澤隊長の命令で自決させられたという報道が出回り、氏は苦難の時を過ごすことになる。梅澤氏は、軍に関するものすべてを「悪」と見なす戦後日本の「犠牲者」となったのである。梅澤氏は、沖縄への慰霊の旅の最中、1人の女性から「昭和32年、座間味で行われた厚生省の調査で、隊長に集団自決を命じられたかと問われ、『はい』と答えました。そう言わなければならなかったために、そう言いました。けれど、それは真実ではありません」と言われたという。

 国に援助を申請するに際し、自決だけでは援助は無理だとされ、軍によって自決命令が下されたと噓の証言をしたのだ。苛烈な地上戦を体験した沖縄の人々も生きるのに必死だったのだ。自決の命令を下したのは、役場の助役であった。

国民でコントロール?

 今回、天皇に関する表現に疑問が残る教科書もあった。帝国書院の公民の教科書に「天皇の国事行為を国民全体でコントロールする」という記述があったのだ。これは、共産党の志位和夫委員長と同じような考えである。志位委員長は、『赤旗』編集局長との対談の中で「日本国憲法の第一章 天皇を読みますと、この憲法が、天皇とその制度を、主権者である国民の全面的なコントロールのもとにおくものとなっているところが、大切なところだと思います」と述べている。

 コントロールとは「統制」「管理」の意である。日本国は主権在民(主人公は日本国民)であることは疑いないが、だからと言って、天皇陛下や国事行為をコントロールするという意識を持っている一般国民など、ほとんどいないのではないか。何よりコントロールなどという表現は、天皇陛下への敬意に欠ける。日本は、諸外国(例えばフランスやロシア・中国)のように君主と民衆が対立し、革命によって王制が打倒されたことがない。歴代の天皇は、国中が平穏であり、五穀が豊かに実り、民が救われることをひたすら祈られてきた。自己の安穏を祈られてきたのではない。「国平らかに、民安かれ」──これが天皇の祈りの本質なのだ。

 天皇は国民と共にある、そのことを示すエピソードを紹介しよう。戦時中の1945年5月、空襲により皇居の宮殿が全焼した。昭和天皇は「私の御殿は焼けてもよい。それよりも局(宮廷に仕える女性)たちの御殿にまだ火がついていないならば、全力をつくして助けてもらいたい」と仰せになったという。宮殿全焼という一大事への対応と本土決戦に備えるため、陸軍は長野県松代に建設していた地下壕への大本営(軍部の最高統帥機関)の移転を昭和天皇に強硬に願い出た。

 ところが天皇は「わたくしは国民とともに、この東京で苦痛を分かちたい」「わたくしは行かない!」と怒気を露わにして拒否されたという。まわりの者がいくら説明しようとも「私は何があろうとこの帝都を去らない!」と断固とした態度をとられた。自分のことより他人のことを優先する、国民と共にありたいとの格調高い精神は、今上陛下にも受け継がれている。それは、被災地ご訪問からもよく分かろう。こうした天皇の精神やご存在の意義を国民もよく理解していた。私の手元に1冊の書物がある。『系統誌』と題されたその書物は、私の祖父・傅治郎が、江戸時代初期からの濱田家の来歴を全て手書きでまとめたものだ。

 1946年3月24日に書かれた序文には天皇に関する次のような記述がある(原文は難解な文語体であるので、平易に改変して掲載する)。

「革命(勢力)は、自由・平等・天皇制打倒を唱え、思想は乱立して伝統的国体を根底より覆そうとしている。しかし、私は思う。民主主義は良い。だが我が国に即した民主主義を採用せよと。天皇制・家族制の全廃は、国民団結の中心を失くし、社会生活は何れ破綻する。中心を失えば新たな中心を創造すれば良いではないかとの声がある。が、何人がこの中心に置き替えられようとも、安定することはないだろう。意義ある伝統は重んずべきである。そして、価値がある伝統は生かして、生活の進歩に輝きを加えよ。繰り返して言う、伝統を生かせと」

 皇室の存続を願ったのは、何も私の祖父ばかりではなく、ほとんどの国民もそうであった。戦争の敗北を契機として、退位したり、追放されたり、殺害される君主は多いが、昭和天皇はその地位を保持された。それはなぜか。たとえば、評論家の村上兵衛は「日本国民の天皇にたいする広汎な支持であったろうが、また日本の文化を体現した天皇じしんの力であったとも言えそうである」と述べているが頷ける。日本は、皇室(天皇)と国民が対立することなく、現在に至るまで共存共栄してきた。そのことを思うに「天皇の国事行為を国民全体でコントロールする」との教科書の記述は、これまで述べてきたように様々な意味で相応しくない。

  このような記述が検定で「欠陥箇所」に指定されず、自由社の教科書の記述「(仁徳天皇は)世界一の古墳に祀られている」を指定するなどおかしなことである。今回の検定結果で最も驚いたのは、自由社の教科書が令和の元号の箇所を「■■」と表記したところまで、欠陥箇所に指定されたということだ。令和の元号の発表が数カ月遅れたために、申請本の印刷が間に合わず、仕方なく「■■」と表記したことも、欠陥箇所とされたのだ。元号が何になるかは、超能力者でもなければ、何カ月も前にわかるはずはない。そうしたところまで、欠陥箇所に数えているのは、一般の常識で考えてみても、やはり異常ではないだろうか。

 私は、教科書裁判で著名な歴史家の故・家永三郎氏のように、検定制度自体をなくせとまでは言わない。なぜか。それは、極端におかしな教科書の登場を避けるためであるし、何らかのチェックは必要だからだ。チェックによって教科書の内容がより良きものになることもある。また、検定意見の中には妥当なものもあると藤岡信勝氏も述べている。しかし、検定するなら、まともな検定をしてほしい、それができないなら、まずは「一発不合格」という現在の検定制度を改めてほしいと言いたいだけである。

 自由社の『新しい歴史教科書』の今回の検定結果には、おかしなものが多々あるという。「他社の教科書では認められている同じ記述が自由社については認められないというケース」「前回の検定で合格した記述を新たに欠陥箇所にした」ものもあったと言われる。また、教科書調査官は、意見交換の場において、つくる会メンバーからの疑問・質問にほとんど答えられなかったという。検定に誤りがあるならば、根拠があやふやならば、検定をもう一度、やり直すことが極めて重要だ。

 人間誰にでも間違いはある。それとも官僚は無謬なのだろうか。そんなことは絶対にない。「過ちては改むるに憚ること勿れ」という言葉を文科省教科書調査官に贈りたい。
濱田 浩一郎(はまだ こういちろう)
1983年、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員・姫路日ノ本短期大学講師・姫路獨協大学講師を歴任。現在、大阪観光大学観光学研究所客員研究員。現代社会の諸問題に歴史学を援用し迫り、解決策を提示する新進気鋭の研究者。著書に『日本人はこうして戦争をしてきた』、『日本会議・肯定論!』、『超口語訳 方丈記』など。

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