大きく報じられた通り、令和3年6月23日の最高裁決定で「夫婦同氏が合憲」と判示された。この判決に対してはホッとしたのだが、合憲判示の一方で最高裁判事15名中4名の裁判官が夫婦別姓を認める「違憲意見」を出した点、そしてその意見に着目して一部メディアが早速「今度は国会で時代に即した法整備を」などと述べ、「時代が夫婦別姓を求めている」風に誘導しようとしている点については、やっぱりな…という気持ちが強い。
そこで、そのような「夫婦別姓が時代の流れ」論に対抗すべく、このような裁判官の意見が主判決に対してどのような位置にあるのかという点を述べたうえで、それらの意見に対してそれぞれ反証をしてみたい。是非読者の皆様には、本稿を「夫婦別姓論者を論破する」ヒントとしていただきたい。
そこで、そのような「夫婦別姓が時代の流れ」論に対抗すべく、このような裁判官の意見が主判決に対してどのような位置にあるのかという点を述べたうえで、それらの意見に対してそれぞれ反証をしてみたい。是非読者の皆様には、本稿を「夫婦別姓論者を論破する」ヒントとしていただきたい。
意見=「傍論」の意味
まず、今回の4名判事の「違憲意見」は傍論といい、ラテン語でObiter dictum(オビタ・ディクタム)という。これは、法的拘束力を持つ「主文」とは異なり、社会規範性や法的拘束力を有さない個人的な思想を主張するために判決文や決定文を私的利用したものをいう。
つまり、今から紹介する反対意見はあくまで裁判官個人の思想であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
残念ながら、現在の法制度は最高裁判事が空想や感想を傍論に書くことを認めており、実質上「判事のらくがき帳」となっている現実がある。そのため、実際の判決趣旨とは「異なる方向性も示された」というような切り取り方を往々にしてメディアにされてしまう温床になっている。
つまり、今から紹介する反対意見はあくまで裁判官個人の思想であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
残念ながら、現在の法制度は最高裁判事が空想や感想を傍論に書くことを認めており、実質上「判事のらくがき帳」となっている現実がある。そのため、実際の判決趣旨とは「異なる方向性も示された」というような切り取り方を往々にしてメディアにされてしまう温床になっている。
それでは、傍論で「違憲」と述べた裁判官の主張をそれぞれ見てゆこう。
第一は、検察官出身の三浦守判事。
三浦氏は「夫婦同氏制が女性に対し不利益を与えている」という理由で夫婦別姓を支持した。しかし、筆者も女性であるので、その立場から言えば、そのような不利益は存在しないと断言できる。何故ならば、社会生活においては婚前の氏を通称として公的身分証に記載できる制度が既に導入されているため、実生活上の不便が全く存在しないからである。
また、同氏を含む夫婦別姓論者は、結婚した夫婦のおよそ96%が夫の氏を選択していることを問題視しているが、これは、多くの女性たちが自主的に夫の氏になることを選択したという意志を否定するもので、むしろ「女性差別」的であると言える。
「96%が夫の氏を選択しているのだから問題=きっと女性はいやいや夫の氏を選択しているのだろう」とナチュラルに考えてしまうこと自体が、女性の決断を舐めているのではないか。女性が主体的に夫と同じ氏になることを希望した結果を尊重しない姿勢は、性差別以外の何物でもなく、三浦守判事が「傍論」を利用して自身の性差別思想を主張した点は、批判に値するであろう。
第一は、検察官出身の三浦守判事。
三浦氏は「夫婦同氏制が女性に対し不利益を与えている」という理由で夫婦別姓を支持した。しかし、筆者も女性であるので、その立場から言えば、そのような不利益は存在しないと断言できる。何故ならば、社会生活においては婚前の氏を通称として公的身分証に記載できる制度が既に導入されているため、実生活上の不便が全く存在しないからである。
また、同氏を含む夫婦別姓論者は、結婚した夫婦のおよそ96%が夫の氏を選択していることを問題視しているが、これは、多くの女性たちが自主的に夫の氏になることを選択したという意志を否定するもので、むしろ「女性差別」的であると言える。
「96%が夫の氏を選択しているのだから問題=きっと女性はいやいや夫の氏を選択しているのだろう」とナチュラルに考えてしまうこと自体が、女性の決断を舐めているのではないか。女性が主体的に夫と同じ氏になることを希望した結果を尊重しない姿勢は、性差別以外の何物でもなく、三浦守判事が「傍論」を利用して自身の性差別思想を主張した点は、批判に値するであろう。
第二は、弁護士出身の草野耕一判事。
「選択的夫婦別氏制を導入することによって向上する国民の福利は、同制度を導入することによって減少する国民の福利よりもはるかに大きい」という比較衡量論を主張して夫婦別姓を支持した。しかし、夫婦別姓によって向上する「国民の福祉」とは一体何なのかについては具体的に言及が無く、つまるところそもそもの根拠自体が薄弱だ。
とすれば、「夫婦別姓を導入するメリットの方がはるかに大きい」とするのは草野耕一判事の空想であり、現実の日本社会とは関係性が無いと評価できる。
「選択的夫婦別氏制を導入することによって向上する国民の福利は、同制度を導入することによって減少する国民の福利よりもはるかに大きい」という比較衡量論を主張して夫婦別姓を支持した。しかし、夫婦別姓によって向上する「国民の福祉」とは一体何なのかについては具体的に言及が無く、つまるところそもそもの根拠自体が薄弱だ。
とすれば、「夫婦別姓を導入するメリットの方がはるかに大きい」とするのは草野耕一判事の空想であり、現実の日本社会とは関係性が無いと評価できる。
「氏」と「姓」を混同する狙い
さて、最も問題と思われるのが、第三の宮崎裕子(弁護士出身)、宇賀克也(学者)の両判事による違憲理由、「(夫婦同氏は)生来の氏に関する人格的利益を喪失することのない婚姻の意思決定を法的に認めないとする制約を課す規定であり、不当な国家介入に当たる」という主張だ。
※( )内および傍線は著者
まず、この反対論の基礎となっている「生来の氏に関する人格的利益」という文言の中にある「生来の氏」は、そもそも日本人には存在しない。詳細は過去の記事を参照にしていただきたいが、ポイントは以下の通りだ。
・婚姻契約や養子縁組契約などの「契約」によって新たに結成された「家族」をあらわす「ファミリーネーム」である「氏」と、生物学的に結ばれた血統上の「ブラッドネーム」である「姓」は異なる。
・日本にもかつては(理論上は今も)「姓」は存在したが、時代の流れで血統の名前よりも、「氏(いわゆる名字)」が重要であるとされ、「姓」は廃れた。その理由は歴史的に「氏」が地名からつけられたことが多いことからもわかる通り、土地所有を中心とした私有財産の帰属先を「氏」が明らかにする機能を果たし、特に相続権の面で重視されたからである。
・一方で中国人や朝鮮人には上記のようなファミリーネームにあたる「氏」はなく、ブラッドネームである「姓」しか存在しない。また、共産圏では私有財産がそもそもないという前提なのだから、「氏」は必要なく、「夫婦別姓」が当然ということになる。
※( )内および傍線は著者
まず、この反対論の基礎となっている「生来の氏に関する人格的利益」という文言の中にある「生来の氏」は、そもそも日本人には存在しない。詳細は過去の記事を参照にしていただきたいが、ポイントは以下の通りだ。
・婚姻契約や養子縁組契約などの「契約」によって新たに結成された「家族」をあらわす「ファミリーネーム」である「氏」と、生物学的に結ばれた血統上の「ブラッドネーム」である「姓」は異なる。
・日本にもかつては(理論上は今も)「姓」は存在したが、時代の流れで血統の名前よりも、「氏(いわゆる名字)」が重要であるとされ、「姓」は廃れた。その理由は歴史的に「氏」が地名からつけられたことが多いことからもわかる通り、土地所有を中心とした私有財産の帰属先を「氏」が明らかにする機能を果たし、特に相続権の面で重視されたからである。
・一方で中国人や朝鮮人には上記のようなファミリーネームにあたる「氏」はなく、ブラッドネームである「姓」しか存在しない。また、共産圏では私有財産がそもそもないという前提なのだから、「氏」は必要なく、「夫婦別姓」が当然ということになる。
日本の歴史を冒とくする違憲理由
つまり、歴史的にみると日本人の「氏」は縁組という契約によって獲得しまた変更される性質のものであり、その名字の開祖であっても、それは後天的に獲得した私有財産(新田の荘、足利の荘など)の名称を自身の氏としたものであり、「生来」ということ自体があり得ないのだ。
一方で、「生来的な氏」とは、中国人・朝鮮人・ベトナム人などの社会において一般的である「ブラッドネーム」を意味している。
中国人・朝鮮人など特定の民族がブラッドネームに人格的利益を見出している点についてはそれぞれの国の歴史的背景や社会事情があるのだから、特に問うところではない。
むしろここで問題となるのは、上記宮崎・宇賀両判事が、本来日本にはない「生来の氏」なるものを理由として、それを尊重することが日本国憲法の精神に照らして正当であり、制約を課すことは不当な国家介入とする、という点である。
上記で見た通り、日本の「氏」がファミリーネームとして成立した経緯は日本人の文化や歴史に付帯するものである。にもかかわらず、その価値は認めずに一方的に「生来の氏」なるものを認定し、国家がそれに対する制約を課しているとすることは、日本の歴史に対する冒とくではないだろうか。また、「氏」が財産の証明と相続の正当性を示す観点から守られてきた点に鑑みると、縁組があるのに「氏」を別にすることは、一つの「氏」のもとで守ってきた財産に対する侵害ともなるであろう。
付け加えれば、赤の他人同士が親子となる養子縁組契約が「同氏」であることには夫婦別姓論者は得てして無批判である。一方で、同じく赤の他人同士が夫婦となる婚姻履行契約に対してのみ「同氏制は違憲」という不合理を主張し続ける姿は、「中韓と制度が同じか否か」という基準を採用したいから?と勘ぐられても仕方がないであろう。
一方で、「生来的な氏」とは、中国人・朝鮮人・ベトナム人などの社会において一般的である「ブラッドネーム」を意味している。
中国人・朝鮮人など特定の民族がブラッドネームに人格的利益を見出している点についてはそれぞれの国の歴史的背景や社会事情があるのだから、特に問うところではない。
むしろここで問題となるのは、上記宮崎・宇賀両判事が、本来日本にはない「生来の氏」なるものを理由として、それを尊重することが日本国憲法の精神に照らして正当であり、制約を課すことは不当な国家介入とする、という点である。
上記で見た通り、日本の「氏」がファミリーネームとして成立した経緯は日本人の文化や歴史に付帯するものである。にもかかわらず、その価値は認めずに一方的に「生来の氏」なるものを認定し、国家がそれに対する制約を課しているとすることは、日本の歴史に対する冒とくではないだろうか。また、「氏」が財産の証明と相続の正当性を示す観点から守られてきた点に鑑みると、縁組があるのに「氏」を別にすることは、一つの「氏」のもとで守ってきた財産に対する侵害ともなるであろう。
付け加えれば、赤の他人同士が親子となる養子縁組契約が「同氏」であることには夫婦別姓論者は得てして無批判である。一方で、同じく赤の他人同士が夫婦となる婚姻履行契約に対してのみ「同氏制は違憲」という不合理を主張し続ける姿は、「中韓と制度が同じか否か」という基準を採用したいから?と勘ぐられても仕方がないであろう。
「中韓と同様」と言えば、リベラル層の攻撃対象となりやすい、いわゆる「創氏改名」の批判の根拠として挙げられるのが、朝鮮人のブラッドネームの文化観を尊重せず否定した、という点である。同じ論理でゆけば、宮崎・宇賀両判事の違憲理由も「日本の文化観を尊重せず批判した」ということであり、創始改名を批判する人たちは、同様の論理をもってこの違憲理由も批判すべきであろう。
「夫婦別姓」推進は≪創始改名≫の報復?
さて、朝鮮人社会では、婚姻によって「姓」が変更されることもなく、子どもと親の「姓」も異なる「強制的親子別姓」が伝統であった。創始改名とは、このような伝統が日本の家族制度と異なるため、「家族は同じ名前を名乗るべき」として、「姓」(ブラッドネーム)を強制的に「氏」(ファミリーネーム)として扱った施策をいう。このことは、今日も続く朝鮮人の反日思想の源流の一つとなっている。
よくある虚偽風説では、金さんを木村さんへ強制的に変えたというような話があるが、これは荒唐無稽なデマである。文字そのものを変更する「改名」は裁判所の許可が必要であり、その後、朝鮮人特例で「届け出制」で改名が許可されたが、変更には50銭以上の高額手数料が必要であり、日本人と朝鮮人の見分けが困難になるなどの社会的要請から厳しく制限されていた。この事実は、帝国陸軍中将の洪思翔、衆議院議員の朴春琴、貴族院議員の朴泳孝など朝鮮人名のまま日本政府高官に任官した朝鮮人が数多くいたことなどからも明らかである。
問題視された「強制」とは、朝鮮人に対して日本の婚姻法を適用したことである。それは、金さん朴さんが結婚したならば、夫婦で金または朴に統一し、子どもも同じく統一するという強制である。前述の通りこれは、日本人社会では当然のことであっても、朝鮮人にしてみれば先祖伝来のブラッドネームを強制的に「ファミリーネーム」に変えられたという意識なのだ。
問題視された「強制」とは、朝鮮人に対して日本の婚姻法を適用したことである。それは、金さん朴さんが結婚したならば、夫婦で金または朴に統一し、子どもも同じく統一するという強制である。前述の通りこれは、日本人社会では当然のことであっても、朝鮮人にしてみれば先祖伝来のブラッドネームを強制的に「ファミリーネーム」に変えられたという意識なのだ。
ここで一つのことに気づかされる。そう、現代日本で主張されている夫婦別姓とは、「ファミリーネーム」を強制的に「ブラッドネーム」として扱うという、かつての朝鮮統治とは真逆の構図があることである。選択的夫婦別姓などと述べるが、その実態はまさに李氏朝鮮で行われていた「強制的親子別姓」を日本で復活させようとする民族運動ではないのかと疑ってしまう。
この本当の目的を隠すため、女性の社会進出による夫婦同氏の不便云々を主張しているが、たとえば今回の最高裁決定で夫婦同氏を「不当な国家権力の介入」と非難した宮崎裕子判事は、2017年に婚前の氏の通称使用が認められるようになったため、まさに「宮崎という婚前の氏を通称使用」している方である。であれば、最高裁判事までに出世した宮崎氏自身のキャリアをもって、むしろ女性の社会進出に夫婦同氏が障害となっていないことが証明されるのではないか。それともご自身は稀な例外とでもいうのだろうか。
この本当の目的を隠すため、女性の社会進出による夫婦同氏の不便云々を主張しているが、たとえば今回の最高裁決定で夫婦同氏を「不当な国家権力の介入」と非難した宮崎裕子判事は、2017年に婚前の氏の通称使用が認められるようになったため、まさに「宮崎という婚前の氏を通称使用」している方である。であれば、最高裁判事までに出世した宮崎氏自身のキャリアをもって、むしろ女性の社会進出に夫婦同氏が障害となっていないことが証明されるのではないか。それともご自身は稀な例外とでもいうのだろうか。
夫婦別姓論者は「デマ」が得意?
最後に、夫婦別姓論者の特徴の一つに、「デマ」を述べても良心の呵責が無いという共通項がある。例えば、法務省は婿養子が夫婦同氏であったのに「明治時代は夫婦別氏だった」と当時の法令を改ざんした文書を公式ホームページに掲載し、社民党は「源頼朝と北条政子は夫婦別氏だった」と、そもそも源頼朝に(現代で言う)名字など無いのにこれもまた虚偽を用いて政治的プロパガンダを発信し、民心を煽動している。もし当時のことをよく知らない無知や勘違いからの発信だとしても、このような重要事項に関しては許されるべきではないであろう。
こうした強い反社会運動の背景には、一体何があるのか。
先に述べたように女性である筆者から見ても「夫婦同氏」によって女性が不利な立場に置かれているとは思えないことから、筆者はこのような動きは「日本の歴史を否定したい」勢力が公権力を濫用し、虚偽を発信しても勝ち取るべき目的すなわち「日本人差別」を達成したいとする動機こそがその背景にあると考える。
今秋の衆議院議員選挙では、最高裁判所裁判官の国民審査が実施される。
この際、三浦守裁判官、宮崎裕子裁判官、宇賀克也裁判官、草野耕一裁判官には司法に携わる適性が無いと考えられるため、私は「バツ印」をつける。司法の場を「日本人に対する人種差別思想」の場にしてはならないことを強く願うためだ。
こうした強い反社会運動の背景には、一体何があるのか。
先に述べたように女性である筆者から見ても「夫婦同氏」によって女性が不利な立場に置かれているとは思えないことから、筆者はこのような動きは「日本の歴史を否定したい」勢力が公権力を濫用し、虚偽を発信しても勝ち取るべき目的すなわち「日本人差別」を達成したいとする動機こそがその背景にあると考える。
今秋の衆議院議員選挙では、最高裁判所裁判官の国民審査が実施される。
この際、三浦守裁判官、宮崎裕子裁判官、宇賀克也裁判官、草野耕一裁判官には司法に携わる適性が無いと考えられるため、私は「バツ印」をつける。司法の場を「日本人に対する人種差別思想」の場にしてはならないことを強く願うためだ。
橋本 琴絵(はしもと ことえ)
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。日本会議会員。
昭和63年(1988)、広島県尾道市生まれ。平成23年(2011)、九州大学卒業。英バッキンガムシャー・ニュー大学修了。広島県呉市竹原市豊田郡(江田島市東広島市三原市尾道市の一部)衆議院議員選出第五区より立候補。日本会議会員。