コロナ禍で分かった「ハンコ文化」の無駄

コロナ禍で分かった「ハンコ文化」の無駄

コロナ禍とは―株を守りて兎を待つ

 その時代その時代の日本が覆(くつがえ)り、 誰もその存在すら疑わない当然の前提が抜き去らわれてしまった。否定し取り払われた。それがコロナ禍だ。

【韓非子 五蠹篇】株を守りてウサギを待つ
 古い習慣を守り、それにとらわれて進歩のないこと。宋人に田を耕す者あり、田中に株あり、兎走りて株に触れ、頸木を折りて死す。よりてその鍬(くわ)を捨てて株を守り、また兎を得んと恋焦がう。

 昔、宋の国に田んぼを耕していた男がいた。田んぼの中に切り株があり兎が走って来て株にぶつかり首を折って死んだ。そこでその男は鍬を捨てて株を見守り、また兎を得ようとずっとずっと待ち望んだ。

 という【韓非子 五蠹篇】の文章から転じて、古い習慣を守り、それにとらわれて進歩のないことを言う例え。

 コロナウイルス禍の下、誰が切り株に食らいついていたのかが分かった。つまり、全体を覆っている当然の前提、例えば霧がかかって一寸先も見えない、という全体を覆っている事象、誰もが疑いもしなかった当然の前提、それに立脚して全ての判断が行われていたことを一度取り払ってみる。そうすると、切り株に食らいつき、切り株を頑なに見守っている、という日本の守旧の姿が浮かび上がってくる。

 傍から見ると、それ(守旧)で兎が取れるわけではないことが、霧が晴れてみると分かってくる。同じように、皆がプールに入って泳いでいる時に、一度プールの水を抜いてみる。すると、誰がMr.ビーンよろしく水泳パンツをはいていないかがすぐに分かる。

 つまり、当然の前提としてある水を一度取り払ってみると、誰がパンツなしの者(カナヅチ)であったかが一目瞭然になる。コロナになって誰がパンツをはかずに泳いでいたか分かった――コロナ後であろうがなかろうが、やれることをやってなかっただけのネイキッドスイマーはいったい誰なのか。

 イングランドのコメディで、世界的に有名な「Mr.ビーン」があるが、そのの代表作の一つにこんなストーリーがある。Mr.ビーンが飛び込み台の高いところからこわごわとプールに飛び込む。すると、入水角度が間違っていたのか、履いてた水泳パンツが脱げてしまった。さらに、その水泳パンツをプールで泳いでた子供が持っていってしまった。

 Mr.ビーンはそのままプールに入って泳いでいる限りは大丈夫だろうと、しばらく水につかっていたが、指導員がピッと笛を吹いて、休憩の時間だから、みんな上がれと指示をしたために、Mr.ビーンがプールの中で慌て出した、という喜劇。

 このプールの中でパンツが脱げたMr.ビーンこそコロナ禍の日本ではないか。世界最大の投資家、ウォーレン・バフェットは、本当の危機が訪れたときに、誰が裸で泳いでいたかがわかると言っている。

「Only when the tide goes out do you discover who has been swimming naked」

 つまり、水量が豊富にある時には誰もがみんな護送船団よろしく泳いでいられるが、水位が急に減った途端、泳力のあるものだけが生き残り、パンツをはかずに見かけで泳いでたものは脱落していくという意味だ。私は日本がそうではないかと考える。

コロナ禍が日本に教えること――裸で泳いでいた日本

 コロナ禍に限らず、今まで次々と襲ってきた危機に際し、幸いにも水位が再び上がってきて、経済の流れが日本の努力と関係なくよくなったので、本当の実力をつけることなく、泳いでこれたというのが、日本だと思う。他の泳者が筋肉隆々で完全な競泳選手であるのに、世界経済全体の流れが良かったために、流れに竿をさし、自分の実力で追いついていると勘違いしていたのが今までの日本ではないか。

 考えなければいけないのは、なぜ日本が潮流に竿をさしていただけなのか――その根本的な体質をコロナ禍を契機として考えなければならない。

 例えば、テレワークとオンライン導入。コロナがあったから促進されたというのでは遅いのだ。コロナの前からテレワークとオンライン導入は必要であったし、世界的潮流であった。単に日本が、その潮流に竿をさしていただけ。潮流を起こしていた者は別にいた。

 テレワークとオンライン導入と言えば、当然、5GとZoomが前提だ。ところが、いつまでも切り株(通勤型勤務方式と外国人訪日客)を守っていたため、コロナの霧が晴れたら、他の人間はとっくに兎を捕りつくしていたことが分かった。それが日本だ。
 5Gの基本特許はサムスン、ファーウェイ、クアルコム、エリクソンで、世界全体の特許シェアの95%を占めている。残念ながら日本勢(NTT Docomo)はたったの5%。Zoomは日本製ではない。日本は、霧の中にいて自力で泳いでいると思っていたが、Zoomも、よそ者が奪ってしまっていた。潮流はよそ者が起こしていた。

 ことごと左様に、日本は流れに竿をさすだけで、実は何枚もパンツをはかずに単に流されていただけであったことが露わになったのだ。

コロナ禍が剥がした日本のパンツ

〈1枚目のパンツ 時代にそぐわない学校制度〉
 4月入学か9月入学か――全くナンセンスな議論が日本で沸き上がった。
 日本では集団登下校のように、誰もが一斉に同じ時期に同じことをすることが随所に見られる。例えば、新卒一斉採用である。大学を卒業して4月に企業が新卒を一斉に採用する。何年度採用組ということだ。そして企業は一斉に新入社員教育をする。

 そして小学校、中学、高校は大学に至るまで、一斉4月入学、一斉3月卒業を十年一日の如く守り通してやってきている。しかし、日本以外では4月入学も9月入学もない。
 Rolling admission、Rolling graduationと言って、学校にはいつでも、どの時期でも、何月何日でも入学できる。そして、何月何日でも必要教科を理解したと認められれば卒業できる、という制度をとっている国がたくさんある。

 そもそも頭の良い子は小学校も3年で卒業し、中学校は1年で卒業し、高校も1年で卒業し、大学は3年で卒業するという飛び級を繰り返すことも認められている。またHome Schoolと言って、学校に行かないで両親が先生代わりになることも認められているから、いつ授業を両親が家庭で始めても構わないHome Schoolerは全てRolling admission、Rolling graduationである。

 特に最近ではオンライン大学、オンライン高校、オンライン授業なので、そもそも教室がない。教師や先生の授業はオンラインで録画されているので、いつ入学してもコースの最初から受講できる。そして、各人の進行速度に合わせて卒業時期もバラバラになる。オンラインで卒業しても卒業証書はもらえる。

 これが世界のRolling admission、Rolling graduationの実態である。
 ところが、日本ではコロナを切っ掛けに、4月入学か9月入学かという不毛の論争が始った。おまけに、コロナで3カ月遅れたのでどう取り戻すかと大騒ぎしている。私は弁護士歴50年近くになった今、大学紛争によって24カ月全く法学部の授業がなかったことの遅れで、その後の人生で苦労したと感じたことも聞かれたこともない。標準より3カ月遅れることに大騒ぎする異常な横並び意識こそ、パンツをはいてないで泳いでいる姿と言わなくてはならない。

 世界に目を向けると飛び切り上等の水泳パンツ(学校に行かずに自習する)をはいて世界記録を出している泳者がいっぱいいる。幾つかその例を示そう。

 1つはユダヤ教の宗教学校である。ユダヤ教徒は日本のような公教育を全く受けない集団があり、それはイスラエルの人口の10%にもなる。彼らは基本的にイスラエルの公立学校には進学しない。家庭教育もしくは礼拝所シナゴーグで主催されるヘブライ聖書の勉強だけをする。その勉強スタイルも独特で、先生はおらず、自習のみ。教科書はヘブライ聖書とその注釈書といわれるタルムード、それを1日1項目、1日8時間、生徒が1対1で議論をするという教育をしている。なのに多くのコンピューターサイエンティストを輩出している。

 2番目はアメリカ などのHome schoolである。アメリカの公立高校に行くことを拒否する両親は多数おり、自宅で両親が教えることで高校卒業資格がもらえ、大学入学もできる。このHome schoolで育って著名人になった有名な例は、私が知っているだけでも2人いる。

 1人はイギリスのケンブリッジ大学で博士号を取った歴史学者、タラ・ウエストオーバー。彼女はアメリカ人の女性だが、アイダホの山奥で生まれ育ち、父親が一切の公教育を否定、一切の州連邦の医療保険に入ることも拒否していたので、全て自習でアメリカのブリガム・ヤング大学まで進んだ。大学に入学するまで、学校に行ったことはない。大学入学後もめきめきと頭角を現し、イギリスのケンブリッジ大学に進学して修士をとり、その後ハーバード大学のフェローとなった。その後は、またイギリスのケンブリッジ大学の博士課程に進学して博士号を取る。専攻は歴史学である。

 もう1人はイスラエルのテクニオン大学のコンピュータ学部の学生で、ライアー・ノイマンという若きコンピューター数学者である。彼は世界で初めてBluetoothのプロトコルの脆弱性(ぜいじゃくせい)を見つけ、それまでハッキングが不可能といわれていたBluetooth通信を2回に1回ハッキングすることに成功、世界の通信業界を震撼させた男である。彼も公教育をまったく受けていない。すべて自習で、イスラエル工科大学の博士課程まで進学している。

"ならえ右" の一斉主義

〈2枚目のパンツ  "ならえ右" の一斉主義〉
 日本企業はほとんど全てが3月決算、6月株主総会と一斉に決算し、一斉に株主総会をやる。
 だが、コロナウイルスのようなことが起こると、次期によっては日本企業は決算が遅れる。つまり、日本企業が上場している東京証券取引所の株価の変動が一斉に影響を受けることになりかねない。

 日本の国の会計年度も、一斉に4月から新会計年度が始まる。しかし、国の事業、特に災害復旧や新型コロナ対策のようなことになると、災害やコロナは国の会計年度に合わせて来てくれることはないので、期末近くにコロナが来ると、臨時予算を組み直す、大型の予備費で対応する、ということになりかねない。そうすると、慌てて組む予算になるため、単年度内使用となると非常に杜撰な予算計上と執行のため、業者丸投げになってしまう。

 何事につけても、一斉に物事を始め、一斉に物事を終わる、それに少しでも遅れるな、という日本の十年一日の如くやってきている一斉主義。これこそガダルカナルやミッドウェイ海戦のように、何かあれば、全員が共倒れになってしまう。共倒れになることで自分の責任が問われないというメリットがあるのかもしれない。しかし、一斉に物事を始めない他の国にしてやられることになるだけだ。

垂直差別

〈3枚目のパンツ 垂直差別〉
 次は「垂直差別」。アメリカではちょうどコロナ禍の時期に白人が黒人を差別するという水平差別(社会の水平的構成員たる白人が別の水平的構成員たる黒人を差別する水平差別)が表面化し、国際的な社会問題の様相を呈している。

 私が見るところ、日本にもこの差別問題が存在する。それは人種や肌の色の差別の水平差別ではなく、会社が社員、下請け、出入り業者、非正規、派遣を差別するという垂直差別である(垂直差別とは社会の垂直関係にある関係者間での差別のこと)。

 日本では古くからお稲荷さん、弁天さん、お釈迦さんと、神仏に親しみを込めて「さん」付けをして呼ぶ神仏擬人化現象が見られる。ところが、昭和の高度成長期以降、企業組織体に「さん」を付けて呼ぶようになった。この場合、親しみを込めて言う「お稲荷さん」とは違う。尊敬を示す「さん」付けである。

 会社への「さん」付けはさらに会社を神社の本殿と同様に神聖なる場所という意識を日本の企業社員文化に植え付けた。会社に「さん」を付けて呼ぶこと、会社を擬人化することが恐らく日本企業の意思決定のスピードを遅くすることにも繋がっていることに気づかなくてはならない。
  
 会社に「さん」を付けて呼ぶように会社に人格があり、その人格のある会社様が本社という聖なる場所に存在していらっしゃる。取引先や下請け、セールスマン、社員などはその会社様より序列の低い人間として扱われる。社員は会社様のおわします本殿本社に来て挨拶、お参りをするべきだという意識につながっている。まさに会社の神格化だ。

 場合によっては、元旦に、亡くなった創業者の墓参りを重役、社員全員がするという会社もあると聞く。会社を神格化していない日本以外の企業文化では、社長も含め担当者同士がZoomで会えるなら世界のどの都市に居てもさっさとZoomミーティングでやってしまう。Zoomだから時と場所は問わない。世界は早く動いているので、イノベーション技術の進化について行くためには早い意思決定が要求されるからである。

 ところが、会社人格主義、会社神格主義の日本では、会談を申し込んだ方、すなわち会議をお願いしている人間がうかがわなければならないということになる。
「お前が会いたいと言っているのだから、俺の会社様のおわします本社に来い。それが礼儀というものだ」と。
 本社には巨大な応接間が何室も並び、そこでうやうやしくお辞儀をし、うやうやしく名刺を両手で差し出し、本社様の社長様にお会いする。俺の本社様、俺の会社様、経営の神様の本社詣でということになる。本社の応接室が会社様への謁見の広間という意味を持ってしまっている。

 会社を「さん」付けで呼ぶと会社に人格を持たせ、会社人格化、その人格に対して崇拝、尊崇の念を持つ、または示すことを社会序列の低い人間、社員、セールスマン、取引先、下請けに要求するようになる。会社様が社員、取引先、下請けを差別する。  

 こうしてコロナの時にも本社詣でが行われる。感染リスクを冒してでも、儀式儀礼のための本社詣でである。
 各部課のハンコが連なった稟議書の最後に一番偉い人が大きくて立派なハンコを押す儀式も、この一例である。コロナの後本社詣でがなくならないと、パンツをはいてないことを気づいてないことになる。会社様の関係者が序列に関係なく誰とでも Zoomミーティングをやるようにならないと、パンツをはいてないことを気づかない。

ハンコ習慣

〈4番目のパンツ ハンコ習慣〉
 習慣には良い習慣と悪い習慣がある。マスク習慣は感染防止のための日本の良い習慣だ。  
 コロナの前であろうがなかろうが、やれることをやってなかったことが白日の下にさらけ出されたのが日本の旧弊、ハンコ主義だ。これこそ株を守りて兎を待つの最たる悪い習慣だ。

 ハンコを押させるためだけにコロナリスクを冒してまで満員電車で出社させる会社人格化社会は、白人が黒人を差別する社会と同じで、会社様が社員を差別する社会だということになる。社員や取引先、下請け、出入りの業者はどこに居ても成果だけを相手に提供すればいいのであり、関係は対等だということにならないといけない。コロナでそのことを気づくときが来たのではないか。

 なんと多くの会社でハンコを押すためだけにリモートワークをする社員が出社せざるを得なかった。しかも新浪氏がトップをしているあのサントリーがこれを切っ掛けにハンコを廃止すると報道されていたが、それによってサントリー全体で6万時間の節約になると計算しているという。だが、ハーバード・ビジネス・スクールを出た新浪氏がトップであるにもかかわらず、コロナの時に至るまでハンコ主義を廃止していなかったとは驚きだ。

 考えてみれば、支払決済用の決済文書に押すハンコなどはトップが決めれば、いつでもデジタルハンコに切り替えることができるだろう。トップの決断次第ではないのか。トップが決断さえすればオリジナルの紙に決済者が次々とハンコを押しているという稟議制度はいつでも廃止できるはずだ。

 デジタルハンコに切り替える一番簡単な、そして何のアプリケーションも一切いらない、決めたらその瞬間からデジタルハンコに切り替えることができる方法は、PDFに決済者がハンコを押すというやり方である。
 次に決済する人間は、そのPDFをEメールで送ってもらってプリントアウト し、ハンコを押してスキャンして次の決済者にEメールで送る。これを繰り返せばいいだけのことであり、社内文書のハンコ主義はトップの決断だけで、一瞬でPDFスキャン方式に切り替えることができる。
 しかも、PDF スキャン方式にすることによって、最終決済者のハンコをついたPDFは最終決済者のPCに残ると同時に、会社のサーバーに残るから、いつでも全員が決断することもできる。

 デジタル保管はオリジナルの紙保管よりもはるかに機能性が高い。オリジナルの決済文書を紙で保管するとなると、金庫、そして倉庫というものが物理的に必要になり、余計な経費がかかる。デジタル保管の方がよっぽど経費がかからない。しかも検索も作成日時や文書の性質などスキャンしておけば一発で検索できる。

 さて、社内決済文書はトップの決断次第で、いつでもデジタルハンコ方式に切り替えることができるということが分かったいただいたと思う。

 次は第三者との契約文書である。これがデジタルハンコ方式で契約成立とするためには、相手方の了解がいる。相手方の会社が「いや、何が何でもオリジナルの紙に朱肉でハンコを付いて契約書を作成したい」と主張すれば、デジタルハンコ方式の契約書成立は頓挫してしまう。相手の会社がそれでもいいということになれば、お互いにデジタルハンコを押した契約文書を相互に交換すれば契約成立となる。

 私は弁護士だが、もともと契約成立は口頭の契約でも良いというのが法律の原則だから、会社間契約でハンコが付いてなければ、有効にならないというものは何もない。オリジナルの文書でなければならないというものも何もない。言った、言わないの問題は残るとしても、口頭の契約も十分日本の裁判所は認めている。Eメールの交換だけでも契約成立と十分なり得る。従って、PDFの印鑑を相互に交換するというやり方で十分に契約成立として認定される。だから第三者との契約文書のデジタルハンコ方式も第三者を説得すればすぐにできることだ。

 残る問題は不動産取引のハンコ主義である。日本には不動産取引の登記制度というのがあり、土地やマンションや家屋敷の売買等の取引については印鑑証明書の印鑑を付いた契約書と登記申請書類が必要となってくる。ここはどうしてもオリジナルの紙に実印を付くということが必要になってくる。

 もっともヨーロッパのスウェーデンなどでは土地の取引もブロックチェーンを使って間違いのないことを確認できるので、もとよりはんこ主義、すなわち実印主義、実印を付いたオリジナルの書面を必要とすることはない。この点については国が法律を改正してデジタルハンコ主義でも土地取引、不動産取引を認めるとする必要がある。日本がそこに行きつくにはかなりの時間がかかるであろう。

 次に金融取引を見てみよう。
 例えば代表的な金融取引である銀行借入契約、法律的に言うと、金銭消費貸借契約を銀行と借入人が結ぶ、それに基づいて銀行が融資を行う、という金銭消費貸借契約及び多くの場合に必要とされる連帯保証契約、つまり連帯保証人がその借入人の借入を連帯保証するという証書について、銀行が要求するハンコ主義についてであるが、これも銀行が決断すればいつでもデジタルハンコ方式に切り替えることができる。

 現状の日本の金融機関、銀行は借入人本人と面接し、本人の印鑑証明書を徴求し、その印鑑証明書を使って金銭消費貸借契約書に調印させる、という面接及び印鑑証明書方式、実印ハンコ主義方式をとっている。しかし、これらのすべてについて銀行が決断すればデジタル本人確認、デジタルハンコ主義に切り替えることはいとも簡単にできる。

 まず本人面接主義だが、現行は銀行の融資担当者が必ず本人と支店等で面談し、パスポートや運転免許証、健康保険証等と照らし合わせて本人確認を行う。顔を合わせての面談が必要不可欠と日本ではされている。これは銀行の決断次第でデジタル面談方式、デジタル本人確認方式に切り替えることはいとも簡単である。PCのカメラ機能を使って、あるいはスマートフォンのカメラ機能を使って、本人とZoomないしスカイプその他の面談を行うことはできる。

 画面に現れている者が本人であることを確認するためには、銀行のシステムにパスポートや運転免許証、住民票などをアップロードさせればいい。全ては映像記録されるからよほど銀行員が本人と面談するよりも確実な証拠が残る。
 なぜなら現行の銀行員の本人面談方式でもその場面をビデオ録画したり、写真を撮ったりしている訳ではないからである。しかも画面に登場している人物がバーチャルにつくられたフェイクの人物でないことを確認する技術はいくらでもあり、高度な画像認識センサーを使えば目の動き、口の動き、そして額の血管の脈拍まで感知することができるので、フェイク画像はすぐに見破ることができる。よほど銀行員が出向いて行って本人面接するよりも確かだ。

 だいたい運転免許証の写真と同じであることを担当の銀行員がその目で人間として判断している訳だが、それこそいい加減なものだと言えるのではないか。何年も前に撮った10年有効のパスポートの写真と目の前の本人とをどうやって比べると言うのか。銀行員の目でどうやって判断できると言うのか。馬鹿も休み休み言ってもらいたい。

 最新の技術を使えば、パスポートの写真と目の前に現れているコンピュータースクリーンの人物の顔とが同一であることは入国審査の機械化の技術と全く同じであり、今や世界に一般的に普及しているコンピューター画像認識識別AIを使った本人確認技術であるから、日本の銀行が決断すれば明日からでも導入できるのである。

 要はコロナ中であろうがコロナ後であろうが、決断しないトップがいれば、あらゆる物事はコロナ以前のまま今後も続いて行くことになってしまう。コロナを切っ掛けにサントリーの新浪氏のように決断するトップがもっと出てきてもいいのではないか。

ダダ洩れの個人情報

〈5番目のパンツ ダダ洩れの個人情報〉
 日本ほど「個人情報」「個人情報」と大騒ぎしながら個人情報がダダ洩れの国も珍しい。コロナ前からパンツをはいてないと言われている日本のお粗末な情報管理を指摘したい。それは日本の多くの会社で採用していることだが、個人情報や機密文書と思われるものをパスワードロックのEメールl添付で送る時に、いちいち2本目のEメールでパスワードを続けて送信するというナンセンスな慣行は、この際コロナ後廃止した方がいい。

 最近のニュースで、ある日本政府の機関が機密文書をこのやり方で送る時に送信先を職員が手入力しタイプミスをしてしまったために、全く違う第三者に機密文書が送られた。当然のこととして、その機密文書の添付書類を開くパスワードも立て続けにその間違った先に送られたのである。
 何のためにパスワードで保護しているのか、と言いたくなる。パスワードを立て続けに同じEメールアカウントから同じIPアドレスを使って、同じWi-Fi やスマートフォンを使って立て続けに送信すれば、そもそもパスワードの意味がなくなるわけだ。
 なぜなら、ハッカーが常にそのようなEメールを狙っていると仮定せよ。立て続けに送られるEメールにパスワードが書かれていることはすぐにわかってしまうから、いとも簡単にハッカーが機密文書を開くことができる。

 さらに言わせてもらえれば、「本件文書はパスワードを使って開いていただく必要があります」ということをEメールにわざわざ注記し、立て続けにパスワードを送るというのは阿呆としか言いようがない。なぜなら、間違った先に送ってしまったEメールには、一目瞭然、機密文書が含まれているということが分かるから、悪意のある者なら喜んで立て続けに送られてくるパスワードを使って添付文書の機密文書を開いてしまう。

 つまり、1本目のEメールの本文にわざわざ「パスワードでロックされています。パスワードは次のEメールで送ます」と書くことは、逆に悪意で狙っているハッカーの注意を引くというものだ。

 安全を期すならば、そういう表現を書かないで、まずは機密文書をパスワードロックの状態で送る。そしてパスワードはファックスで相手方に送信すること。あるいは少なくとも、立て続けのEメールではなく、グーグルのGmail に付いている時間指定の機能を使って、少なくとも24時間後にパスワードを知らせるEメールを送信するという時間差送信が必要だろう。
 立て続けのEメールでパスワードを送るというのは、例えば言えばライオンに狙われている鹿が草むらに身を隠しているのに、わざわざ草むらの上に目立つように「鹿がここにいます」という看板を付けるようなものである。
 パスワードは立て続けに送るな。少なくとも24時間の時間差を置いて送る。一番安全なのは、パスワードはファックスで送ることだ。

 こういう基本的なところが日本企業の脇の甘さを示していると言わざるを得ない。恐らく会社で決めたことだから、十年一日の如く誰も何の疑いも持たずにこのやり方を踏襲している、というものはコロナの前後を問わず全てやり替えた方がいい。

指導的立場の人間の無能力や政治家の民度の低さ 

〈第6のパンツ 指導的立場の人間の無能力や政治家の民度の低さ〉
 麻生副総理は日本は民度が高いから感染が広がらなかったと発言した。
 そもそも「民度」とは何を指して言っているのか。民度発言の主の口から聞きたいところだ。

 第一に、ひっくり返して言うと「人口当たりの死亡者が多いのは民度が低いからだ」という発言であるから、外交上極めて愚かな発言だ。そもそも世界中の多くの亡くなった人、その家族、看取ることすらできなかった家族や友人に対する配慮の欠如が著しい。ざっくばらんに言えば、レベルが低いから死んでいるんだ、ということになる。

 特に麻生氏の民度発言で問題なのは、感染が多いのは民度が低いからだ、という今まさにアメリカ で起こっている黒人の人種差別問題に触れる極めて問題の多い発言であることだ。

 コロナウイルスの死亡者数、患者数は黒人が白人に比べて多い。それは事実として報道されている。麻生発言は「黒人は民度が低いから感染するんだ」と言ったことになる。極めて人種差別的な発言と言わざるを得ない。

 民度発言の主に聞きたい。民度と死亡は一体どういう関係があるのか? 日本でも多くの人が亡くなっている。そういう人たちは民度が低いと言うのか。
 そもそも民度とは何を言うのか。その定義とは何だ。
 国民の識字率を言うのか、国民の義務教育率を言うのか、それとも国民の大学進学率を言うのか。それともその国の国民が取得している特許の件数を言うのか。その国の国民の大学教授などが発表している論文数を言うのか。それともその国の政権が発するメッセージに従う国民の多さを言うのか。それとも政府の発する自粛要請という罰則と強制力を伴わない要請に対して従う国民の多さを言うのか。それとも今回の様に罰則付きの法律でしか外出の自粛要請に従わない国民の少ないことが民度が高いといのか。

 人口あたりの感染率で最も高い値を示しているのはベルギー、次に英国、イタリア、フランス、スペイン と続くが、これらの国の民度の低い点とはいったい何なのか? 答えてもらいたい。

 EUの本部があるヨーロッパの政治の中心、ベルギーの民度の低い点とは何なのだ? 答えてもらおうでないか。
 議会制民主主義発祥の地、英国の民度の低い点とはいったい何なのか答えてもらおうではないか。
 フランス革命発祥の地、市民革命発祥の地、フランスの民度の低い点とは何なのか答えてもらおうではないか。

 麻生が言う民度の低いイギリス王室はチャールズ皇太子に、仮にイギリスが日本のような低い感染死を達成したなら、麻生のような民度の低いしゃべり方はさせまい。
 英語で民度が高いというのは“Sophisticated” とか“Educated”“Developed”“Civilized” または“Rich” ということになると思われるが、その“Sophisticated”されたイギリス王室ならチャールズ皇太子にこういう風にしゃべらさせるだろう。

「今回我が国の感染死亡者数が非常に少なかったことに関しては、まずもって神に感謝していると言いたい。そして何よりも多くの国の感染死亡者の方々にご冥福をお祈りすると同時に、感染死亡者の方の家族、友人、そして現在も入院しておられる方の家族、ご友人の方に深い同情とこの困難な状況に耐えておられることに改めて敬意を表したい。なおご指摘の我が国の感染死亡者数が非常に低かった点については今後医者、科学者、文化人類学者などから科学的な分析をいただき、その結果世界の他の国々に役立つことがあると思われる場合には迷うことなく公表していきたいと思っています」

 私は麻生氏のような民度の低い発言をする人が一国の副総理であることを多いに恥じ入り、麻生氏の発言により傷ついた人々に謝罪したい気持ちである。
 コロナ 肺炎患者の死亡者が少ないのは民度が高いからだということを言う政治家がいる国の民度をもって恥じ入っていることを改めて表明したい。

当然の大前提を疑うことができる人間を教育できなかったこと

〈第7番目のパンツ 当然の大前提を疑うことができる人間を教育できなかったこと〉
 これが一番大切なパンツだが、それは誰も何も疑わない国全体を覆っていた当然の大前提を疑うことができる人間を教育できなかったのである。

 戦後の日本の経済成長を支えた「オフィス出勤型時間拘束残業強要型勤務形態」を誰しも疑わず、どんどんと都心にオフィスビルを建設、どんどんとそれを中心に鉄道網、公共交通機関網も発展し、どんどんと郊外、郊外へと通勤時間が延びる出勤システムを前提に日本経済が構築されてきた。マイホーム、マンションブーム 、高度な地下鉄網、鉄道網の建設、大量輸送網の構築.  それを一旦取り払って、そういうものがない前提の社会ではどうなのかということを考えてみる必要があったのだ。


※本稿≪後編≫に続きます。
石角 完爾(いしずみ かんじ)
1947年、京都府出身。通商産業省(現・経済産業省)を経て、ハーバード・ロースクール、ペンシルベニア大学ロースクールを卒業。米国証券取引委員会 General Counsel's Office Trainee、ニューヨークの法律事務所シャーマン・アンド・スターリングを経て、1981年に千代田国際経営法律事務所を開設。現在はイギリスおよびアメリカを中心に教育コンサルタントとして、世界中のボーディングスクールの調査・研究を行っている。著書に『ファイナル・クラッシュ 世界経済は大破局に向かっている!』(朝日新聞出版)、『ファイナル・カウントダウン 円安で日本経済はクラッシュする』(角川書店)等著書多数。

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