朝の通勤時間帯の東京駅改札近くで、行き交うビジネスマンたちにマスクを無料配布する若い女性がいた。中国語の文字が入った黒いTシャツ姿。おぼつかない日本語だから、一目で中国人とわかる。近くで年配の男が段ボールから、大量のマスクを彼女に手渡していた。どこかの回し者のようで胡散臭いから、逆に受け取る人は少ない。

 武漢発の新型コロナウイルスでダメージを受けた中国共産党はいま、世界中で「ウイルス制圧の勝者」としての大キャンペーンを開始した。中国ではすでにウイルス感染のピークが過ぎたとして、危機に強い中国をアピールしている。外国の企業が大陸から撤退しないよう、安全性がもどったとの大宣伝だ。
 上海に立地しているアメリカとカナダのマスクメーカーは、上海市からの全量買い取りという事実上の輸出禁止により、北米地域は品薄状態に苦闘させられている。ウイルスをまき散らしておいて、世界のマスク需給までひっ迫させているのだから迷惑な話だ。大量に抱えるマスクをここで放出すれば、世界に貢献する中国としてのイメージアップには最適だ。これが、習主席の標ぼうする「人類運命共同体」の正体ではなかろうか。

 いわば「ウイルス漏洩の敗者」から、「ウイルス制圧の勝者」への転換工作である。自由主義国家のような失政の透明化は苦手でも、中国流の全体主義国家は強権発動による制圧はお手の物なのだ。
 中国共産党がウイルス戦争の勝利者でなければならない理由はもっぱら経済にある。もはや共産党の正統性は、イデオロギーや愛国主義にあるのではなく、人々を豊かにする経済を保障することだ。ところが、米中貿易戦争で第1段階の合意という「休戦」に持ち込んだのに、武漢ウイルスが発生して中国経済が動かなくなってしまった。
 巨大都市をまるごと隔離せざるを得なくなり、すべての工場も操業を停止した。彼らはすでに、3月5日に開催予定だった年に一度の全国人民代表大会も延期を余儀なくされている。このまま感染拡大が長引けば、「世界の工場」でなくなるとの恐怖が指導部を震え上がらせているに違いない。

 外国勢をひきつけておくためにも、ウイルス制圧の成功と感染終息の余裕を見せる必要がある。世界各地で大量のマスクを配布するのもその一環だし、感染者が2番目に多いイタリアや、やはり1万人を超えたイランに医療チームを派遣したのもそうだ。
 特にイタリアは、日米欧の主要7カ国(G7)の中で唯一「一帯一路」構想に組み込まれた国である。なんとか支えないと、習主席トラの子の「一帯一路」に傷がつきかねない。
 いま、習近平政権がもっとも嫌うのは、「漏洩の敗者」としてウイルスの早期封じ込めができなかった段階に引き戻され、非難されることだ。

 その過失をアメリカのオブライエン大統領補佐官にえぐられると、彼らはとたんに逆上する。中国外務省の趙立堅副報道官は「アメリカ軍がウイルスを武漢市に持ち込んだのかもしれない」とツイッターで口を滑(すべ)らせた。さすがに、中国人もこの陰謀説にはあきれて、「今やるべきは、他国のせいにすることなのか」と批判的な書き込みが相次いだ。
 公衆衛生の勝者を装う偽装国家からの被害を極小化するためにも、国際社会はサプライチェーンの再構築を迫られるだろう。
 10年以上前に、米ジャーナリストのサラ・ボンジョルニさんが1年間かけて中国製品を買わないで過ごす体験を書いた『チャイナフリー 中国製品なしの1年間』が評判を呼んだことがあった。中国製品をやめると子供たちはおもちゃが手に入らなくなってむくれ、ご主人は安価なペンや携帯電話が買えなくなって、何もかもが高くつくことが分かった。

 もっとも、当時は生活用品レベルの話で済んだが、いまのパンデミックは生死にかかわる安全保障レベルだから深刻だ。マスクをはじめとする医療関係器具や、自宅にある薬の多くが、中国製の材料を使用してインドで加工されている。武漢ウイルスの影響で中国の多くの業界が休止状態にあり、インドまでが医薬品の輸出を禁止する措置をとっている。
 中国依存がここまでくると、サプライチェーンの変更か、少なくともリスクを減らすためのバイパスの建設が必要になる。貿易戦争と武漢発のパンデミックから聞こえてくるのは、米中2つの経済を引き裂く「デカップリング」という構造変化なのだ。

湯浅 博 (ゆあさ ひろし)
1948年東京生まれ。産経新聞東京特派員。中央大学法学部卒業。プリンストン大学Mid-Career Program修了。産経新聞ワシントン支局長、シンガポール支局長を務める。現在、国家基本問題研究所主任研究員。著書に『覇権国家の正体』(海竜社)、『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(文藝春秋)など。

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