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2015年から2022年までミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めた、ワレリー・ゲルギエフ氏
 ダイナミックで切れ味鋭いチャイコフスキー6番の「悲愴」を期待するなら、ロシアの巨匠ワレリー・ゲルギエフが指揮するCDがお薦めである。ストラビンスキー作曲の「春の祭典」もまた、雄弁な美しさをたたえて聴く者を魅了する。

 しかし、芸術は時に独裁者に利用され、芸術家は権力の庇護を安易に受け入れてしまうことがある。この世界的に有名な指揮者の思想と行動は、プーチンの体制翼賛に加担する傾向があって、耳に心地よくても好きにはなれない。

 ロシアのウクライナ侵攻をめぐって、演奏が予定されている欧米の劇場側が、プーチン政権と距離を置くよう求めても、黙して語らず。しびれを切らした劇場側が、ゲルギエフを降板させるケースが増えている。

 この2月末、ゲルギエフはミュンヘン・フィル管弦楽団の首席指揮者を解雇されたのをはじめ、イタリア・ミラノのスカラ座で開催予定のオペラ公演を外され、フィルハーモニー・ド・パリは4月に予定していたマリインスキー歌劇場管弦楽団のコンサートを中止している。理由はいずれも、ロシア軍のウクライナ侵攻を非難しなかったことに起因している。

 さらに、スイスのベルビエ音楽祭の祝祭管弦楽団の音楽監督も辞任、ロッテルダム・フィル管弦楽団も関係を停止。ニューヨークのカーネギーホールでも出演交代があって、欧米各国の音楽界からのゲルギエフ締め出しが止まらない。
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プーチン大統領とワレリー・ゲルギエフ氏
 筆者が巨匠の行動に不信感を抱いたのは、2008年のグルジア(現在のジョージア)紛争の発火点である南オセチア州で、ゲルギエフが指揮した追悼演奏会の一報を聞いた時だ。彼は演奏会に先立つあいさつで、「もし偉大なるロシアの助けがなければ、犠牲者はさらに増えていただろう」とロシア軍を礼賛した。

 この追悼演奏会そのものが、ロシア政府の支援を受けた官製であった。ゲルギエフのいう「偉大なるロシア」の露骨なメッセージの動画が、配信元から世界に流された。その彼が、当時のプーチン首相の全面的な支援でマリインスキー歌劇場管弦楽団を立て直したとも聞いていた。管弦楽団の本拠地であり、プーチンとは縁の深いサンクトペテルブルク人脈なのかもしれない。

 あのヒトラー政権下で演奏を続け、政治宣伝に使われた巨匠フルトベングラーのケースと似ている。当時の演奏家たちは、「あの時の私たちはただ、演奏を続けたかっただけなのです」という悔悟の言葉を吐いていた。フルトベングラーも、「ドイツたらしめているものはドイツ音楽だ」との自負が強かった。だから、ゲルギエフのスピーチを聞き合わせれば、「ゲルギエフよ、おまえもか」と憂鬱な気分になるのだ。
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ナチスの宣伝に利用されたフルトベングラー
 そうした印象を当時、新聞コラムに「ゲルギエフも政治宣伝に使われの身か」と書いたことがある。するとNHKの元モスクワ支局長なる人物から、人を介して抗議を受けた。この自称ロシア通によれば、ゲルギエフのそれは紛争で命を失った多くの民衆に対する鎮魂の演奏であって、政治的な人間ではないとの擁護論であった。

 しかし、2014年にロシアがウクライナ南部クリミア半島の併合に動いた際も、ゲルギエフは国際法を破ったプーチンに加勢していたことをどう弁護するのか。あの時、ゲルギエフはじめ八十人以上の著名文化人が、クリミアをめぐる政権の立場を支持する公開書簡を発表した。「ロシア系住民の保護」を名目にクリミア介入に踏み切ったプーチンは、大々的なプロパガンダを展開して保守的な多数派を結束させている。

 この時、クリミア半島の併合で、低落傾向にあったプーチン大統領の支持率が上昇に転じた。同じような手口により、受動的で権力に隷従しがちな国民性に乗じて人気を維持していた。ロシアが小国グルジアに仕掛けた罠は、「あのヒトラーのドイツが仕掛けた詐術と同じではないか」と感じたものだ。

 プーチンは今回のウクライナ東部でまた、同じように居住する「ロシア系住民保護のため」との名目で次々に侵攻した。大国が小国をひねりつぶす際の、古典的な「正当化」策である。

 政治に重要なのは正当性であり、時にその政治宣伝のために著名な芸術家が動員される。プーチンの釈明よりゲルギエフの音楽の方が、欧米の人々にはよほど雄弁であるからだ。フルトベングラーが結果的にナチスと妥協し、利用されたという批判から免れなかったように、ゲルギエフのウクライナ侵略に対する沈黙もまた批判から逃れられない。
湯浅 博(ゆあさ ひろし)
1948年、東京生まれ。中央大学法学部卒業。プリンストン大学Mid-Career Program修了。産経新聞ワシントン支局長、シンガポール支局長を務める。現在、国家基本問題研究所主任研究員。著書に『覇権国家の正体』(海竜社)、『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(文藝春秋)など。

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