死せる登輝、生ける近平を走らす

死せる登輝、生ける近平を走らす

 台湾の民主化を成し遂げた李登輝元総統が7月30日、多臓器不全などのため台北市内の病院で死亡した。97歳だった。日米をはじめ世界中の主要メディアが追悼記事を大きく掲載し、李氏の台湾への貢献を好意的に紹介したのに対し、中国の官製メディアだけが異なっていた。

 中国共産党の機関紙、人民日報傘下の環球時報は「台湾を邪道に導いた罪人」などと李氏を痛烈に批判した。李氏が推進した民主化と台湾本土化路線によって、台湾に住む人々の中国に対する帰属意識が薄れ、特に、李氏が総統を退任する前に発表した「台湾と中国は特殊な国と国の関係だ」(二国論)という主張によって、中国の対台湾政策の原則である「1つの中国」(台湾は中国の一部)が事実上否定された。中国からみれば、台湾独立運動の精神的指導者となった李氏は天敵のような存在だった。

 しかし一方、米中対立のさなかに李氏が死去したことは、北京の神経を一層、とがらせることになった。台湾の蔡英文政権が李氏の葬儀に世界中の要人を招き「弔問外交」を展開して、国際社会における台湾の存在感を高めることに利用することを警戒したためだ。

 李氏死去の翌日、菅義偉官房長官は記者会見で、「李氏の葬儀に政府特使を送る予定はない」と話した。中国の各メディアはすぐに大きく伝えた。しかし、その約1週間後、森喜朗元首相が9人の国会議員を連れて台湾を訪問し、台湾の外交部長(外相)ら高官を伴って李氏を弔問した。自身と李氏の長年の友情を振り返り、日台親善の思いを次の世代に託す内容の弔辞を読み上げる森氏の姿がテレビ中継され、多くの台湾人を感動させた。

 森氏は「政府特使」ではなく、民間人という立場で訪台したが、その効果は政府特使以上のものだった。その3日後、台湾を訪問中の米国のアザー厚生長官も李氏を弔問した。

 李氏の遺体は8月14日に火葬されたが、台湾政府は9月に「国葬」という形で盛大な葬儀を行う予定だ。その際に、米国はポンペオ国務長官を派遣するのではないかという噂が流れている。

 そうなれば、日本や英仏などからも現役閣僚が参加する可能性があり、焦った中国の習近平政権は各国に外交攻勢を仕掛け、阻止に躍起になっているという。

 中国の古典、三国志の中に「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事がある。蜀の軍師、諸葛孔明が魏の司馬仲達の大軍と対陣中に病死した。孔明の遺命に基づいて蜀軍は撤退したが、追撃してきた敵軍に対し反撃の構えを示したため、仲達は孔明がまだ死んでおらず、何か策略があるのだろうと勘ぐり慌てて退却したという。

 優れた人物の生前の威光が死後も残り、生きている人々を恐れさせるたとえとしてよく使われるが、死去した後も宿敵の中国共産党を振り回した李氏の影響力は健在で、まさに「死せる登輝、生ける近平を走らす」といえる。

 ここ数年、中曽根康弘元首相、米国のブッシュ(父)元大統領、フランスのシラク元大統領など、李氏とほぼ同じ世代の大物政治家は次々と鬼籍に入った。その中で、李氏の死に対する国際社会の関心が最も高いとされる。その理由について、李氏をよく知る台湾の元立法委員(国会議員)は、「李登輝氏の政治理念は未完成だからだ」と解説した。

 李氏が前任者の蔣経国の「反共」という政治理念を引き継ぎ、強い姿勢で中国と対決し続けたことは、いまになって改めて評価されている。

 例えば、李氏は総統在任当時から、中国に生産拠点を移せば、経済活動が政治的に利用され、技術も盗まれる危険性をいち早く察知した。台湾企業に対し「戒急用忍」(急がす忍耐強く)という言葉を用いて,中国への投資が行きすぎないように呼びかけ続けた。当時は孤独な戦いだったが、米国のトランプ政権は最近になってから、李氏と同じ理由で米国企業の中国からの撤退を呼び掛けるようになった。米国企業と一緒に中国からの脱出を試みる欧州や日本企業も急増したが、中国の外貨持ち出し規制で撤退がうまくいっていないところが多いという。

 日本文化を深く理解している李氏を敬愛する日本の政財界の要人が多く、1990年代から、台湾を訪問して李氏を訪ねることは一種の流行になっていた。しかし、李氏の「中国は危険だ。中国共産党と距離を置くべきだ」との言葉に真剣に耳を傾けた政治家と財界人は少なかった。まことに残念なことだ。
矢板 明夫(やいた あきお)
1972年、中国天津市生まれ。15歳の時に残留孤児二世として日本に引き揚げ、1997年、慶應義塾大学文学部卒業。産経新聞社に入社。2007年から2016年まで産経新聞中国総局(北京)特派員を務めた。著書に『習近平 なぜ暴走するのか』などがある。

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