「歴史認識などで一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対している」という安倍前首相の発言が物議をかもしている(参考記事)。一部の左派メディアは原文を引用せず、安倍前首相が「五輪反対する人は反日」と仰ったかのように偏向報道していて、それに騙されて怒っている五輪開催反対派もいる。

 もちろん原文を読めば、これはいかに悪質な印象操作かすぐわかる。実際の発言趣旨は、五輪開催に反対している人は皆反日ではないが、反日の人は皆五輪開催に反対というところだろう。
ナザレンコ・アンドリー:"グローバルスタンダード"(笑...

ナザレンコ・アンドリー:"グローバルスタンダード"(笑)でもおかしい日本の「左翼」

とにかく日本を利することは反対!!

実はヘンだよ 左翼=反日

 さて、今回はこの安倍発言やオリンピック開催の是非ではなく、安倍発言内で使われた「反日」とはなにか…について改めて語っていきたいと思う。

 まず、現在の日本で、いわゆる“特定”野党とそれらを支持する活動家を「左翼」ではなく、「反日」と呼ぶことはとても適切である。
 
 「左翼」の方は稲田朋美氏のような人物に相応しい言葉だろう。親日的な歴史認識と高い国防意識を持った上で、伝統的な社会の在り方を疑問視し、夫婦別姓や同性婚制度化を目指す。そういう改革(筆者は改悪と考える)はとても受け入れがたいものではあるが、本人は悪意でではなく、自らの国家観に基づいて主張するものだから、議論の余地はある。

 ところが、特定野党はそうではない。往々にして、歴史的問題では日本の名誉を傷つける説を唱える。国際問題においては、日本と対立する国の立場を支持する。国内問題に関しても、具体性がないスローガンばかり訴えて、キチンと対案も出さずに、審議拒否などで政府の足を引っ張る…(「時間が余ればコロナ対策もやります」発言や、桜を見る会について望んでいる回答を得られなかったためコロナ対策集中審議を退席する行動はその代表的な例であろう)。
ナザレンコ・アンドリー:"グローバルスタンダード"(笑...

ナザレンコ・アンドリー:"グローバルスタンダード"(笑)でもヘンな日本の「左翼」

いつでも反対!

日本のネガティブ情報を喜ぶ人たち

 また、日本が不利な状況に追い込まれたり、何かネガティブな要素が見つかったとき、「反日」勢は通常の国民が持つ「心配」という心理より、なぜか「喜び」が先だっていると感じてしまうのは私だけであろうか。「日本の商品は海外で売れなくなっている!聖火リレーで火が2回も消えたのは神のお告げだ!K-POPはJ-POPより人気がある!」等、日本を憂うのではなく、(なぜか上から目線から)嬉々として日本サゲを行っている。

 なぜ日本を憂う気持ちがないことがわかるかというと、彼らは大抵何の助言もせず、「〇〇〇なんだから、日本はこうすべき」という意見表明もしないからだ。どうすべきか示していないまま単にダメなところを大声で宣伝している行為は批判と呼ばれるに値しないし、筆者にはただの憎悪としか思えない。
 このような「反日」言動が市井の人の発言であるのであれば、百歩譲ってまだわかるところもある。個人の意見や思想信条は自由だからだ。だが、選挙で選ばれ、国家・国民のために尽くすことが基本である「政党」は別であろう。度々日本の国益にならない発言や選択をする政党の存在は日本政治の最大問題ではなかろうか?

 例えば米国では共和党と民主党は物凄く対立していて、社会の在り方に関する意見が非常に異なっている。が、安全保障の話題になると、全会一致で法案を通すことは珍しくない。左寄りのバイデン政権になっても、対ロ経済制裁が続いているし、トランプ大統領が始めた対中強硬路線も受け継がれている。

 もちろんANTIFAのような極左無政府主義集団もいるが、基本的に民主党議員でも“愛国心”を訴え、国が存在しているおかげで権利を守ることができるという当たり前な認識を持っている。日本の「左翼」にはそういった気持ちが見られないのだ。
ナザレンコ・アンドリー:"グローバルスタンダード"(笑...

ナザレンコ・アンドリー:"グローバルスタンダード"(笑)でもヘンな日本の「左翼」

日本の左翼はなぜか日の丸も嫌いがち

国と政府は別=左翼の日本サゲは「自分サゲ」

 それでは、我が国の左翼が「反日」となった原因はどこにあるのか。おそらくは「国家そのもの=悪」という偏見を植え付けた戦後教育と、国を「政府」の同義語として使う日本の習慣にあるではないかと思う。

 例えば英語では国を表す表現は三つもある。国土に重点を置く場合はcountryと言い、国民や共通文化に重点を置く場合はnationと言い、そして政府を表したい場合stateと言う。

 このNationの概念が日本には薄すぎることは反日の人が現れる理由だと考えられるであろう。国民である自分自身も国家の不可分の一部である。日本の国益は自分の利益に繋がり、逆も然り。日本という国が存在しているからこそ自分自身が様々な自由や権利を持ち、国が滅びるとそれらも一瞬で消える。日本人が日本人らしく生活できる国は世界で一つしかなく、政府を憎むのを別として、国を憎むのは自滅を招く行為である。

 例えば、数年前に「保育園落ちた日本死ね」という話題の発言があったが、その内容の是非はともかく、育児に関する行政を批判するのであれば「政府は死ね」という方がよほど真っ当ではないか。なぜなら「日本死ね」と言ってしまうと、その日本を構成している一部である「自分」も死ねと言っているに等しいからだ。

 「日本」をサゲる人たちは自分がその日本の外にあって「私は日本とは関係ないよ~」とでも言いたいのかもしれないが、それは当人が日本人である限り大きな間違いであろう。

 こういう当たり前な認識が全国民に共有されていれば、左翼と右翼の対立が続くとしても、「反日」はいなくなるはずで、意見は違えど「日本を良くする・守る」という基本は共有できるはずだ。しかし、残念ながら日本の教育は個人と国家(nation)の関係には触れないことが多い。

 折しも昨日(7月4日)、東京都議選が行われたが、天候の問題はあったにしても、投票率は42%と過去2番目に低調であったという。このように、多くの人が政治に関心を持たず、投票権を棄権しているのも「自分と国は別物」と考えてしまっているからではないだろうか。

 こういう基本的なところの見直しを行わないと、日本はいつになっても身内の「反日」病で悩み続けるだろう。
ナザレンコ・アンドリー
1995年、ウクライナ東部のハリコフ市生まれ。ハリコフ・ラヂオ・エンジニアリング高等専門学校の「コンピューター・システムとネットワーク・メンテナンス学部」で準学士学位取得。2013年11月~14年2月、首都キエフと出身地のハリコフ市で、「新欧米側学生集団による国民運動に参加。2014年3~7月、家族とともにウクライナ軍をサポートするためのボランティア活動に参加。同年8月に来日。日本語学校を経て、大学で経営学を学ぶ。現在は政治評論家、外交評論家として活躍中。ウクライナ語、ロシア語のほか英語と日本語にも堪能。著書に『自由を守る戦い―日本よ、ウクライナの轍を踏むな!』(明成社)がある。

関連する記事

関連するキーワード

投稿者

この記事へのコメント

コメントはまだありません

コメントを書く