ナザレンコ・アンドリー:国を亡ぼす≪左派リベラル≫の怠...

ナザレンコ・アンドリー:国を亡ぼす≪左派リベラル≫の怠惰な思想

左派リベラルは往々にして自分で解決しようとしない―

≪成長≫を否定する左翼思想

 前回の連載(第19回)で共産主義者の思考パターンに触れ、自分より成功している人への嫉妬と憎悪(=ルサンチマン)が彼らの原動力と書いた。今回も引き続き、もう一つの左翼勢力、左派リベラルについてお話させていただきたいと思う。

 ソ連が崩壊し、モスクワによる世界各国の共産党に対する諜報活動と経済支援が不活発になって以降、バリバリの共産主義者よりも左派リベラルのほうが力を持ち危険になってきた。両方とも人の弱みを利用しているが、方向性は多少違う。コミュニストが利用しているのは嫉妬心、リベラリストが利用しているのは「怠惰」と「自己中心的思考」だ。

 左派リベラル思想は、おそらくいつまでも人気であり続ける。なぜならば、その思想を信じている本人に何も求められないからだ。「もっと良くなろう!もっと賢くなろう!もっと強くなろう!」等のような自己開発や努力は一切重視されず、全員を〝ありのまま〟で認めることが求められる。自分が何もしなくてもよく、社会や他人のみに変化を強要するという意味では、とても便利で単純なイデオロギーだ。「私には至らない点が沢山ある。私自身は変わらなければならない。そして上手く成長できるかどうかも全て私次第」という思想と比べてずっと楽な考え方だ。

すぐ「何かをしてもらう権利」に走る甘え

 こうした左派的思想の普及によって、権利の概念も大分変わってきた。本来の自由主義においては権利も自由も、それは「何かをする権利」もしくは「何かをする自由」である。ところが、左派リベラルは「何かしてもらう権利」を主張することが圧倒的に多い。

 例えば、各国の生存権の定義を比べるとわかりやすい。東欧も西欧も、生存権は「誰にも殺されない権利」という意味で使われる場合がほとんどだが、他方の日本では生存権は「国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とされ、生活保護を与えないことでさえ生存権の侵害として扱われてしまう。命を奪うのと、働かない人を養わないのとでは話のレベルが全く違う。なのに、日本のリベラルは「他人からタダで金を貰えない=殺される」と考えているようだ。

 ずっと「何かをしてもらって当たり前」という態度を取ることは、社会の観点から何が危険かというと、何かをしてくれる人がいなくなると、その生き方が成り立たないことだ。現状では社会構成員のなかで倫理観が強い方、プライドがある方、真面目に働くことに生きがいを感じる方が過半数なので、そうでもない左派リベラルでも彼らに寄生して生きていられる。しかしその過半数が野党支持者のように、働くことよりも毎日「現金よこせ~」「生活保護は権利だ~」というようなデモ活動ばっかりに力を入れるようになれば、いずれか社会が崩壊するに違いない。

 個人の観点からでも、左派リベラルの思想は問題だらけだ。一見、優しいかのように見えるが、実は個人の成長の機会を奪い、社会適合性や自力で生きるために必要なスキルを身に着けることの妨げとなるからだ。私自身もそういう体験がある。学生時代、極度にリベラルな教授が担当していた「人権と共生」という科目を履修したことがある。そこで「留学生は日本語が難しければ、レポートを英語で書いてもいい」と言われた。「ラッキー!」と思ってそれに甘えた人もいたが、こうして日本語を磨く機会を奪われてしまうと、就活の時には日本人に勝てるはずがない。マイノリティーに配慮するように見えて、実は外国人の競争力を落として不利にしている教授だったが、本人はそれに気づかなかった。教育の本来の役割は弱者を強者のレベルまで引っ張り上げることであり、「弱さを武器にして甘えていい」と教える授業は有害でしかない。
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ナザレンコ・アンドリー:国を亡ぼす≪左派リベラル≫の怠惰な思想

「何かをしてもらう」ばかりの国はいずれ滅びてしまうだろう―

「どちらがより弱者か」:左翼同士の不毛な内ゲバ

 結局、「弱さ=善・正義」かのような思想が普及してしまったため、リベラルの内ゲバがとても見苦しくなった。例えばフェミニストとトランスジェンダーが争う場合、論点はたいてい、どちらのほうが社会的弱者なのかになる。「私たちの方が差別されているぅー」、「あんたらはまだマシだわ、私たちこそ真の弱者だ」、「あぁ、私たちはなんて可哀そうだぁ」……などと悲鳴をあげ合っている。

 ただ何よりも恐ろしいのは、自分が弱者であれば何でも許されると思うようになることだ。「自分が被害者だ」という誤った意識を常に持っていれば、自分が加えるあらゆる攻撃は「反撃」として認知され、正当化される。良心の呵責を永遠に感じず生きるためにとても便利な考え方なので、一度でも被害者意識を持った者は、その後、立場がいくら良くなっても、それを捨てたがらない。

 結論からいうと、弱者であった方が有利な社会では誰も成長しようとしない。そうすれば、「辛い時代は強い人をつくる→強い人は豊な時代をつくる→豊かな時代は弱い人をつくる→弱い人は辛い時代をつくる」という、人類は何度も繰り返してきた悪循環から抜け出すことはできない。
ナザレンコ・アンドリー
1995年、ウクライナ東部のハリコフ市生まれ。ハリコフ・ラヂオ・エンジニアリング高等専門学校の「コンピューター・システムとネットワーク・メンテナンス学部」で準学士学位取得。2013年11月~14年2月、首都キエフと出身地のハリコフ市で、「新欧米側学生集団による国民運動に参加。2014年3~7月、家族とともにウクライナ軍をサポートするためのボランティア活動に参加。同年8月に来日。日本語学校を経て、大学で経営学を学ぶ。現在は政治評論家、外交評論家として活躍中。ウクライナ語、ロシア語のほか英語と日本語にも堪能。著書に『自由を守る戦い―日本よ、ウクライナの轍を踏むな!』(明成社)がある。

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T.O. 2021/10/6 05:10

一つ気になったのですが、(日本人が当たり前のように犯している誤りなので仕方ないとはいえ)「耳障り」というのは「耳に障る」つまり「聞くのが不快だ」という意味ですので、「耳障り」が「良い」という使い方は誤りです。
最近は校正でも素通りされる例がちらほらあるようですが、「舌触りが良い」とは漢字が異なります。

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