※本記事は5月14日配信『「障害は個性」を利用する左派の欺瞞』の続きとなります。
兵頭新児— 続:「障害は個性」を利用する左派の欺瞞

兵頭新児— 続:「障害は個性」を利用する左派の欺瞞

バブル時の「マイノリティ礼賛」傾向

 前回記事にてご紹介した安積遊歩氏の著作、『癒しのセクシー・トリップ』が出たのは1993年、ベストエラーとなった『五体不満足』(乙武 洋匡氏)が出たのは1998年でした。90年代には左派が、そうしたマイノリティを持ち上げるムードを醸成していたのです。

 80年代以降、左派はマイルド路線へと転換しました。それがエコロジーであり、90年代になって顕著になったのが女性やLGBTや障害者といったマイノリティを表舞台に上げよう、という運動でした。

 この『セクシー・トリップ』はタイトルに違わず、ご当人の恋愛遍歴が実にセキララに描かれています。これは一つにはこの時期に「性を語ることはいいこと」、「取り分けマイノリティのそれについて知っているのは格好いい」といったムードがあったためです。

 渡米した時のエピソードには「アメリカはゲイばかりではと思えるほどゲイが多い、ゲイはみな陽気で親切だ(大意)」などと繰り返されており、確かに当時の「ゲイブーム」においてはこうした軽薄な主張が繰り返されていたよなあと、若い頃の黒歴史日記を読み返したような恥ずかしさを覚えます。そんなの、「障害者はみな心の美しい天使だ」と言っているのとどう違うのでしょうか。
 確かに、「マイノリティ、弱者の立場を理解しよう」という掛け声だけを聞けば大変結構なことだけれども、しかしよく見ていくとそこには即座には賛成しがたい理念が隠れているのではないか…ということを、前回も「障害は個性主義」といった言葉で表現しました。

 今回の記事ではこれらの運動(障害者運動、LGBT、フェミニズム)が密接につながっていることを指摘しつつ、そこをもう少し、突き詰めていきたいと思います。

「個人の問題」を「社会の問題」にすり替える論法

 安積氏の著作を見ていると、ともかくこの方、実に旺盛に周囲の人間に当たり散らしています。それも「感情を発露する必要があるのだ」と言うばかりで、周囲の人間に謝罪したり、悪く思ったりしている様子はあまりありません。

 『車いすからの宣戦布告』では内縁の夫「アブノー」氏の帰宅が僅か30分ほど遅れたことに対して、激烈な怒りを爆発させたというエピソードが描かれます。一応、自分にも出かける予定があり、娘も熱を出している、それを全てわかっていたのに遅刻したという、怒るだけの事情はないではないのですが、遅刻は渋滞に巻き込まれたせいであり、何もそこまで…という感じがします。

 いえ、実のところ問題は他にあります。同日、安積氏はまだ赤ん坊である娘さんと介護者の三人で買い物に出かけたところ、介護者が外出して車中に残された時に娘が便意を催したので、障害を持つ彼女が一人で娘の用足しの世話をし、大変だったそうです。

 その時の怒りを、安積氏はアブノー氏に(遅刻の件と共に)ぶつけるのです。
兵頭新児— 続:「障害は個性」を利用する左派の欺瞞

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障害者が困っていることを常にわからなくてはいけない?
 ≪人が困っているのに、“大丈夫ですか?”と声をかけてくる人はたった一人もいない。困っていても声を掛けあえない、そんな社会に私たちは住んでいるんだよ。(後略)≫(181~182p)

 何が何だかわかりません。安積氏は娘さんの用足しの件について、「誰も自分を手伝おうとしなかったから許せない」と身勝手な怒りを爆発させた挙げ句、アブノー氏に八つ当たりしているのですが、ご当人はそうした振る舞いを「素手で闘いを挑むドン・キホーテ(183p節タイトル)」と自画自賛。
 ≪彼(引用者註・アブノー氏)は、ときに自分が社会総体となって私のまえに存在するなどとは、まるで思っていないようだ。私たち二人のあいだに発生する問題を、つねに個人的なレベルにだけとどめて考えようとする。ときとして私が発する、私は女性として長い男性支配の歴史を生き延びてきた者の代表であり、あなたは支配してきた側の代表としていま私の目のまえにいるのだという叫びを、どんなふうに聞いているのだろう。≫(184p)
 自分を「女性の、障害者の代表」などと考えるのは思い上がりでしかないし、相手を「男性の、健常者の代表」と考えることも、無理矢理に相手へ責任をおっ被せることでしかありません。

 しかし、こうしたものの見方をすればあら不思議、「列に割り込んでエレベータを優先的に使う」という前回ご紹介した彼女の振る舞いも、そしてまた伊是名さんの行動も「障害者の苦しみを理解しない健常者たちに戦いを挑むドン・キホーテ」の雄姿にしてしまえるのです。

 フェミニズムの理念には「個人的なことは政治的なこと」というものがあります。政治だって個人の営みの総体なのだから、それは確かにその通りではあるけれども、フェミニストはこのワードを振りかざし、非常に往々にして個人的な憤りを社会にぶつける傾向にあります。

 今まで見てきた安積氏や伊是名氏の言動も、それと全く同じであると、ここまで来ればおわかりいただけるのではないでしょうか。

 個々の事情の勘案という過程をすっ飛ばして、全てを「障害者/女性」といった聖なる弱者と、それに無理解な邪悪なる「健常者/男性」の対立構造にすることで、彼女らはいついかなる場合も正義の側に立てるのです。

「助けられる」だけの一方通行

 もう一つ、彼女の著作ではことあるごとに「助けあい」の大切さが解かれるのですが、障害者側が「助けられる(べきと想定される)」場面は描かれても、「助ける(ことができると想定される)」場面は描かれません。彼女が相手にどのようなリターンを返すことができるのかが、全く見えて来ないのです。

 ご家族であるアブノー氏は(彼女の著作は極めて主観的で、基本的に説明が不足しているのですが、想像するに)専業主夫をやっている、即ち彼女に経済的に助けられていると思われるのですが、上にあるように行きずりの人(という、こちらからお返しをすることが基本、できない存在)に対しても、彼女らは「助けあい」を求め続けます。

 「人間は助けあえる存在」との節では以下のように書かれます。
兵頭新児— 続:「障害は個性」を利用する左派の欺瞞

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助けられるなら「助ける」こともあるべきでは?
 ≪アブノーによれば、彼はだれかに助けてもらうときにどうしても、相手に悪いとか、申しわけないとか、断られたらめんどうだとか、いろいろな思いがわいてしまうが、私にはそうした意識のカケラも見えないというのだ。≫(188p)
 この後も≪アブノーは男で、障害をもたないから(中略)助けを求めることに慣れてもいない≫≪手をさしのべる側もさしのべられる側も対等≫≪自立していればこそ、のびやかに助けを求められる≫(189p)と耳障りのいい言葉が続くのですが、言うまでもなく安積氏の「のびやかに助けを求め」る行為には、エレベータに割り込むことも含まれるのです。

 安積氏は「丁重にお願いする」という「コスト」をかけることが嫌で、そのため「助けあい」などというキレイな言葉を使って、ことの本質をずらしているようにしか、思えません。
 では何故、そんなにも「コスト」をかけたくないのか。

 それはその「コスト」の本質は「自分が障害者という普通ではない存在だと突きつけられる」という体験であって、それが彼女らにとっては、ぼくたちが感じるよりも遥かに苦痛なものだから、なのではないでしょうか。それ故の「逆ギレ」が、実は一貫して、彼女らの行動の源泉になっているように思われます。

 そして、そうした「逆ギレ」を耳当たりのよい言葉にしたのが「障害は個性」という物言いなのではないでしょうか。個性であり、普通なのだから、普通に扱われるべきだ、苦痛を感じなくして欲しいのだ、という。

 しかし、それは相手側に要らぬ「コスト」を強いる行為であり、要らぬ摩擦を起こすばかりでしょう。
兵頭新児— 続:「障害は個性」を利用する左派の欺瞞

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一方通行的な「助け」は通常成立しないのでは?

「障害者手帳」は差別?

 同書のページを前に戻すと、「障害者手帳は差別」と主張する様が描かれます。

 「べつにこの手帳を見せなくても差別は雨あられと降ってくるが、サービスを受けるときは手帳を見せなければならない。なんともはや、障害者手帳の存在自体が差別であるとも言える。」(73p)
 彼女の文章の中でも特に理路が理解しにくい部分です。

 実は別な著作『多様性のレッスン』の中でも

 ≪私の場合は、障害者手帳は必要なサービスを使えるので、あまり心地よくはありませんが、もち続けています。なぜ心地よくないかというと、割引を受ける時は手帳の提示を求められますが、差別される時は手帳の提示に関係なく差別されるからです。≫(184p)
 という下りがあり、これまた理解困難です。

 しかしこれも、手帳の提示を求められること自体が、自らの障害を晒されるようで辛い、それが既に「差別」だ、と言っているのではないでしょうか。

 後者の不思議な文章も、「手帳を提示しない時に起こった自分の障害と向きあわされる体験」を「手帳の提示という体験」と並列し、「その双方が不快であり、差別だ」と主張していると考えれば一応、理解が可能になります。
 これはまさに伊是名氏が「健常者同様、事前準備なしに電車に乗れるべきである、そうでなければ差別」と訴えているのと同じロジックではないでしょうか。

 障害者の中には自分をそれと認めまいとして手帳を入手しない方もいるそうです。その気持ちは大変辛いものだろうけれども、では、それが「障害者を差別する社会のせい」と言われると、果たしてそうか、と感じます。そうした場面もあるかもしれませんが、「自分が障害者である事実」と向きあいたくないという心理がまず、あるのではないでしょうか。

 これを読んでいると、フェミニストたちが「社会が強制してくる女性への規範」と言うものが多くの場合、彼女ら自身の内的葛藤ではないか(例えばですが、スタイルが悪いのにミニスカートを穿くと笑われるのではないか、など)と思えること、そしてそれをなくすために根源となる人間のジェンダーそのものをなくそうという「無理ゲー」を続けていることを思い出さずにはおれません。
 しかし「障害者手帳を持たなければ、必要なサービスを受けられない」のと同様、「障害者である自分と向きあわなければ、社会に向きあうこともできない」のではないでしょうか。
兵頭新児— 続:「障害は個性」を利用する左派の欺瞞

兵頭新児— 続:「障害は個性」を利用する左派の欺瞞

「障害者手帳」は差別なのか?
 そんな障害者手帳を嫌っている安積氏ですが、ご自身だけではなく、同じ障害を持つ娘さん、宇宙(そら)さんにも手帳を持たせているといいます。これは本来、対象者が三歳になってからでないともらえないところを、三歳未満の娘のために知りあいの医者の顔でゲットした、それによって降りる手当で家の食費を賄っている、と誇っているのです。

 何しろ伊是名氏もヘルパー申請の際に虚偽を述べたこと、ディズニーランドへと子供料金で入ったと思しきことが問題になっています。違法性があるかも…と思って調べたところ、どうも「通帳は概ね三歳から出すことが望ましい」といった主旨の政府からの通知があるものの、法的根拠があるわけではないようです。
 3歳までは(赤ん坊ならばそもそも、車椅子なども必要ないでしょうし)医者の現場判断で「まだ必要がない」とされた手帳を、安積氏が強引に入手し、それによって月6万ほどの手当てをゲットした、ということのようです。

 違法性があるわけではないので、本件を責める気はありませんが、一方で差別だと主張する手帳をもう一方では早急に入手し、手当を得ているというのは、安積氏たちのアンビバレントな心情をよく表しているように思います。

左派の欺瞞が解けつつある

 ――冒頭にて、こうした風潮は左派が90年代に用意したものではないか、と述べました。

 当時は日本が豊かであり、これらは明らかにそんな日本人の後ろめたさを突く形で出てきました。その全てが悪いものではなかったでしょうが、軽薄なものも多かったように思います。

 乙武さんは「障害者なのにフツーの人」として登場してきました。しかしそれ自体が驚きであるからこそ注目されたのであり、結局、彼は「ぼくたちよりもスゴい人」だったわけです。90年代、障害者や女性やLGBTたちは「マジョリティという名の悪者に忘れさられていた人々」として、ぼくたちの「マレビト崇拝」の対象となったのでした。

 そうした人々に、左派は「聖なる告発者」の役割を担わせたのです。

 先に安積氏の文章を「黒歴史日記」と表現しましたが、現代の目から見て彼女の著書に奇異を感じずにはおれないのは、日本全体が貧しくなりすぎて、「弱者に寄り添う」ポーズを取ってみせるだけの「余力」を失ったからでもありましょうが、同時にだからこそ「障害は個性」主義に欺瞞があるとわかってしまったからでしょう。

 バブルには通用していた、そうした非現実的なPCの魔法が、皮肉にも日本の経済的衰退で解けてしまった。一連の騒動はそれを表していたのではないでしょうか。
兵頭 新児(ひょうどう しんじ)
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。

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