「性自認」の安易な容認がもたらす危険
本サイトに掲載された山口敬之氏の記事でも伝えられるように、イギリスでは「自分はトランス女性だ」と称して女子用施設に潜入し、性犯罪を犯す者が問題になっており、そうした人たちも日本へとやってくるわけです。もちろん、だからといってパスを振りかざして女湯に、女子トイレに入ることが即座に通るわけではないでしょうが、こうした傾向は確実に外圧とはなろう、といったことが懸念されます。
また、仮に性犯罪に及ばないからといって、外見がむさ苦しいおっさんだった場合、女湯に入ることを平然と迎える女性がどれだけいるものか、大いに疑問です。
「医療証明書もないままに自己申告が通る」となると、確かに偽者の温床となることが心配されますが、しかし本件の本質はそればかりではない。個人の自由をどこまでも重んじながら、それが他者との軋轢になることに無頓着である点にこそ、問題があるのではないでしょうか。
言い換えればこれは「個人」、といっても「弱者としての符牒を持った特定の個人」の自由ばかりが認められ、それが「他者」の利益とのバッティングを常に起こし得るという当たり前の事実からどこまでも目を伏せようとする、リベラルな「人権意識」の暴走であると言えるです。
いつも申し上げるように、LGBTの運動は理念においてフェミニズムの影響下にある、ぶっちゃけてしまえばそのバリアント(変種)でしかありません。
つまり、そのリクツで言えば「トランスは女性の仲間」だったはずなのです。それが今、大きな軋轢を生みつつある。
どうして、こんなことになってしまったのでしょう。
「女性球団でキャッチャーがオカマ」は許されるのか?
作中で、女性がキャッチャーを務めるのは無理ということになり、「シュワルツネッガーみたいなマッチョな肉体の上に女装と化粧をしているオカマ」がその任に着くことになります。見るからに「化け物のようなオカマ」が、そこでは描かれているわけです。
萌えアニメであれば吹けば飛ぶようななよっとした美少女が平然とキャッチャーになることでしょうし、漫画なんだからそれでいいと思うのですが、ともあれ古い少女漫画にはこうしたオカマが頻繁に出てきたものです。もちろん、「絶世の美少女かと思いきや、実は女装した美少年」といったモチーフも昔から盛んに描かれていたものの、「敢えてマッチョな肉体に女装をさせる」というパターンもまた、多く見られたように思います。上の漫画は好きな作家さんのものであまり悪口めいたことは言いたくないのですが、オカマを敢えて醜く描くところに女性の優越感がないとは、考えにくい。例えば少女漫画において主人公の友人が決まって主人公に比べて美人度が低く描かれるのと同様、そこに女性の中にある美のヒエラルキーを感じないわけには、どうしてもいかないのです。
もちろん、とはいえ漫画における描写は自由であるべきです。LGBT法が施行されたら上の漫画は発禁になってしまうかもしれませんが、それは好ましい事態ではありません。
ただ、近年のLGBTにまつわる騒動を見ていると、どうにも上の「女だけの球団」を思い出してしまうのです。事実、女子スポーツがトランスに席巻されつつあることは、【WiLL増刊号#576】などでも指摘されているところです。
本件を上の漫画になぞらえて表現するならば、「女だけの球団」で専らそのオカマだけが活躍して、手柄を独り占めしてしまった、といった図式になるでしょうか。フェミニストたちがトランスを政治利用しようとして下克上された…といった図式に、どうしたって見えてしまうのです。
フェミの意図を超え始めた「トランスの下克上」
そもそもが「LGBT」という括り方に、既にある種の線引き(SMマニアや小児性愛者を仲間外れにしようとする意図)がありましょうし、それはお尻に「Q」だの「+」だのをつけてみたところで変わることはありません。単に「セクシャルマイノリティー」と呼べばいいと思うのですが、それをしない真意はもう、明らかでしょう。
ぶっちゃければLGBTとは「名誉女性」なのです。L(レズビアン)が女性なのは当たり前ですが、G(ゲイ)やT(トランス)なども女性性を持った存在として捉えられているのですね。
いえ、LGBT運動家やフェミニストなどはこちらが、例えば「ホモは脳が女なんだろ」などと言うと(これ自体は学説として以前から言われてきたことです)、それは違うとご高説くださるのですが、少なくとも男性同性愛者を政治的に「名誉女性」に位置づけてきたのは彼ら彼女らの側です。
例えば、浅田彰氏は『逃走論』において、以下のように言っています。
≪固定した性的役割から逃れ続けるからこそゲイなんだ。そのやり方は各人各様、バイが普通だとは思うけど、たまたまヘテロだって構うもんか、逃げ足さえ速けりゃ立派なゲイだ。≫(5p)
ゲイが女性に性的加害を与える可能性は低いとしても、男性に加害を与える可能性はあるのですが、彼ら彼女らはそうした可能性を絶対に認めようとしないし、それはトランスにおいておや、ということが言えるのです。
フェミニズムの「害」が女性に向かう?
そんなわけで、少なくとも本件はフェミニストにとっては自業自得であり、正直「勝手にしろ」と言いたいところなのですが、しかし当たり前ですがこの問題で被害者になるのは一般の女性ですし、この世のほとんどの女性はフェミニストではありません。
まるで女性の代表者であるかのように振る舞い、大きな権力を得たフェミニストたちの実害が、男性ばかりか女性にまで及び出したということなのです。いえ、非婚化など今までも女性たちは充分フェミニズムの害を被ってきましたが、それがいよいよ露骨に、甚大になりつつあるのです。
残念ですが、その可能性は大変に低いと言わねばなりません。
もう随分前の話ですが、ぼくは著名なフェミニストが「MTF女性(トランス女性)が女湯に入ることには問題ない」と言ったことを批判し、噛みあわない議論をしたことがあります(参考①/参考② )。
それにネットの世界では実のところ、これらの話題が広まるより一歩速く、TERF(ターフ)という言葉が囁かれていました。これは「トランス排除的ラディカルフェミニスト」の略で、元は欧米でトランスが女性専用施設に立ち入ることを拒否するフェミニスト自身が自ら名乗った言葉のようなのですが、日本では専ら「ツイフェミ」を批判する言葉としてこの数年、使われるようになりました。
「ツイフェミ」というのはツイッター上で発言する(多くは市井の人物であると想像できる)フェミニストのことで、「本来のフェミニズムを捻じ曲げる似非フェミ」といったニュアンスで語られることが多いのですが、これはフェミニズムを延命しようとする左派が市井の立場の弱い女性をスケープゴートとするために作り出した言葉であり、「ツイフェミ」と「学者など本物のフェミ」とで主張には何ら変わりがない、ということは以前にも述べさせていただきました。
ともあれ、具体的には2018年、お茶の水女子大がトランス女性の受け入れを発表した時に「ツイフェミ」がそのトランス女性のトイレの使用について反発した辺りが、この言葉の広まるきっかけとなったように思われます。
坂爪真吾氏の著書『「許せない」がやめられない』においては専ら「ツイフェミ」が騒いでこのトランス女性をバッシングしたかのように語られています。
≪現実のトランス女性たちは、ツイッター上でこうした仮定や推論に基づく議論が行われる以前から、日常的に女性トイレあるいは多目的トイレを使っている。そして特に問題になっていない。≫(162p)
「被差別者」同士がエゴをぶつけ合う
冒頭に書いたように、「個人の自由」を認めれば認めるほどにそれは「他の個人の自由」とのバッティングを起こします。そこを今まで左派は「自由を制限されてきた被差別者」を仮想することで彼ら彼女らを担ぎ上げ、ご神体としてきました。彼ら彼女らこそが優先的にエゴを発揮する権利を持つ「選ばれし者」なるぞ、というわけです。
しかし、当たり前だけれどもその「被差別者」同士もまた、当然、エゴをバッティングさせて軋轢が生じる。この場合であれば女性とトランスがそうです。
何とかかんとか「いついかなる場合であれシスジェンダーヘテロ男性が悪いんだ」と強弁して何とかしのいできたフェミニズムの論法もいよいよ、さすがに、誰の目にも明らかな無理が出てきた(ちなみに「シスジェンダーヘテロ」というのは自らのジェンダーに揺らぎのない異性愛者の意味です)。この世には「多様な性」が存在し、それぞれがそれぞれの「多様性」を持って、他の「性」に対し加害者足り得る可能性があることが、バレてしまった。
本件は、その一端であったかのように思われます。
本来はオタク系ライター。
フェミニズム、ジェンダー、非モテ問題について考えるうち、女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱、2009年に『ぼくたちの女災社会』を上梓。
ブログ『兵頭新児の女災対策的随想』を運営中。