ビジネス街には珍しいお年寄りの群れが、大規模接種センターを目指している。東京・地下鉄大手町駅から、ほぼ5メートルおきに貼られた矢印に導かれ、出入口の「C2b」から押し出された。「地元のワクチン接種よりも早い」とやってきた人ばかりだから元気いっぱいだ。

 とはいえ、目の前で白髪の夫の手を引く夫人の一言には仰天した。
「この人は、『死にたい』というのが口癖なんです。でも、今回は『早く打ちたい』とせかされましてね」

「武漢ウイルスに殺されてなるものか」という気持ちなら同感である。求められるのは、公平性よりも迅速性である。ワクチン接種の極意は、正確無比の「狙撃」よりも、連射で数をこなす「乱れ撃ち」にある。
 
接種数を増やせば、それだけ早く集団免疫に近づける。ウイルスの感染者が劇的に減ることは、すでに欧米で実証済みだ。イギリスは年初に、コロナ感染者が人口あたり日本の約30倍という高水準にあったが、ワクチン接種の乱れ撃ちのおかげで新規感染率を劇的に減らすことに成功した。
湯浅博:ワクチン接種の極意は"乱れ撃ち"

湯浅博:ワクチン接種の極意は"乱れ撃ち"

ワクチン接種を"乱れ撃ち"せよ―
※写真は都庁内接種センター
 コロナ感染の急拡大という「有事」に、イギリスはワクチンを素早く打つための秘策を繰り出した。日本のように2回目の接種を3週間後に行うのではなく、わざわざ12週間を開けて2回目を打つ方法を採用した。とにかく1回目の接種数を薄く広く増やす方法で、5月末には新規感染者数が20分の1に激減した(※)。

 最近のバーミンガム大学と英公衆衛生庁の共同研究で、2回目を12週間後に接種した人の方が、3週間後に接種した人より、抗体の平均濃度が3.5倍高いという結果まで得られたという(米誌『ニューズウィーク』電子版)。ワクチン供給量が限られる中で、接種人口を拡大するための苦肉の策が、実は正解であった。

 だから、イギリスで開催したコーンウォールG7・サミットの記念撮影で、エリザベス女王がジョンソン首相に「みんな楽しそうにしていればいいんですね?」と発した一言は味わい深い。その場を和ませるジョークであり、パンデミック後の自由世界再生に尽力するジョンソン首相へのねぎらいにも聞こえた。
※記事執筆時点(6月上旬)。7月初旬現在、英国では再び感染者が増えているが、ワクチン接種により重症者・死亡者数が減少しているとして、7月中旬を目途に「正常化」を予定している。
湯浅博:ワクチン接種の極意は"乱れ撃ち"

湯浅博:ワクチン接種の極意は"乱れ撃ち"

大規模スポーツイベントの開催など、ワクチン「乱れ撃ち」で正常化に動く英国
 こちら日本は、自衛隊が動き出すと、さすがにテキパキと回転を始めた。東京と大阪の自衛隊の大規模接種センターがワクチンの乱れ撃ちを始めると、それまで低空飛行だった接種回数のグラフが、みるみる右肩上がりに急増していく。

 「公平性の原則」を口うるさくいっていた厚生労働省の役人も目を白黒させた。これに地方の大規模接種と職域接種が加わる。
 
 東京五輪・パラリンピックの選手が、ワクチンを優先的に接種されると報じられると、「不公平だ」と罰当たりな声があがった。

 とたんに、選手の中に優先接種の辞退を申し出る人が出た。だが、これは公平性より迅速性というワクチン接種の極意に反する。まして、米ファイザー社からの提供は、日本が契約して届けられるものとは別枠だから、遠慮はいらない。

 日本はすでに、ファイザー社から1億4400万回分、米モデルナ社から5000万回分、そして英アストラゼネカ社の1億2000万回分の計3億1千400万回分に上る。日本には十分なワクチンがあるのに接種が遅れたのも、打ち手が足りないとの悲鳴も、やりくりが下手な日本政府、地方公共団体の問題である。
 そもそもの遅れは、厚生労働省の承認が遅れたためである。ファイザー製のワクチンは、いまが有事であることを考えれば、この製薬会社の持つデータだけで承認が可能なはずだ。だが、慎重な厚生労働省は再度の治験にこだわり、2、3カ月ほどスタートが遅れた。

 あの東日本大震災のときに、絶望からよみがえることができたのは、被災者の中から自然に湧き出る「民力」の存在であった。地震直後の英紙は「地震の挑戦を受けて立つ日本」と驚嘆したものだ。

 ただ、賢い民草への讃嘆の声は、ダメな政府に対する不信の裏返しである。当時の菅直人首相は右往左往するだけで、2週間を過ぎても安全保障会議も中央防災会議も開かなかった。その民主党の後継政党である立憲民主党が、菅義偉政権を突き上げている構図だから誰もついていかない。
 
 自衛隊の接種を受ける高齢者が一巡し、予約に余裕があるなら接種券がなくても本人確認書類だけで打ってもいいはずだ。
 
 なんといっても日本には十分なワクチンがあり、〝乱れ撃ち〟の結果は裏切らない。
湯浅 博(ゆあさ ひろし)
1948年、東京生まれ。中央大学法学部卒業。プリンストン大学Mid-Career Program修了。産経新聞ワシントン支局長、シンガポール支局長を務める。現在、国家基本問題研究所主任研究員。著書に『覇権国家の正体』(海竜社)、『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(文藝春秋)など。

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